初出場でともに入賞を果たした4位宮原知子(関大)と6位坂本花織(シスメックス)。関西から世界に羽ばたいた2人を支えるコーチも、初めて臨んだ五輪の舞台で教え子の背中をそっと押した。

 

 「会場を知子の色に染めてきなさい」

 浜田美栄コーチ(58)はフリーの演技前、リンクサイドで教え子の宮原とおでこを合わせてささやいた。「あんまり心配はしませんでした。ここまでやったから、後は知子らしく滑ればいいと思いました」。2人の出会いは、宮原が両親の仕事の都合で過ごした米国から7歳で帰国した直後だった。京都のスケート場で頭を抱える少女にそっと話しかけた。

 「どうしたん? 靴ひも結ばれへんの?」

 困り果てていた宮原のスケート靴のひもを結んであげたことが、最初の接点だった。程なくして自らの教え子になると、ジャンプは右回り。一般的な左回りに直すところから着手したが、その理由も「大して逆(回り)でも回ってなかったから。そこから直しても“どっちもどっち”だった」と笑って思い返す。

 2人の関係はストレートであり、深い。浜田コーチは「『これだけ鈍くさくなくてもいいのにな』って何回も思った。もっとすごい子がいっぱいいた」と本音を素直に明かす。それでも次から次に生まれる壁を越えながら、宮原は努力で五輪の舞台にたどり着いた。

 昨季から今季にかけては、故障でいくつかの国際試合の出場を見合わせながらも、たどり着いた大舞台。世界のトップと渡り合った宮原を見て感じた。

 「私は『知子がこれだけ鈍くさくても、五輪に出られるようになるんだ』って感心しました。だから、人の思いっていうか、努力とか、子どもの気持ちっていうのはとても大切だなって。正直1回転もなかなか跳べなかった子が、こんな大舞台で滑れるっていうのは、やっぱり『心技体』の『心』がすごく大事だなって思いました」

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 「勝負しようとせずに、いつも通りで。戦える相手じゃないからね」

 中野園子コーチ(65)は最終グループの演技前、緊張感たっぷりの坂本にささやいた。リンクの敷居を挟み、2人で向ける目線は会場の中央。アナウンスを合図に坂本の背中をポンッと押し、いつものルーティンで晴れ舞台に送り出した。

 「最終グループの人たちはみんなうまいので『戦おう』と思っていっちゃうとダメ。『自分なりに一生懸命滑ればいいよ』という感じでした」

 出会いは坂本が4歳の頃だった。

 「小さい子でした。ちょっと遊びが多い子。後ろに隠れていた子だったので、そんなに注目していなかったけれど、遊んでいる時は先頭に出てきて、キャッキャやる。何かやらないといけない時は後ろに隠れて…。3番目(3姉妹の末っ子)の性格です」

 厳しく、愛情を持って育てていく一方で、中野コーチ自身も毎年のように海外へ飛んだ。

 「(92年五輪の)アルベールビルは行っていないけれど(94年の)リレハンメルは行ったかな? あまりにもいろいろ行っているので、ちゃんと覚えていないんです。『この勉強はいつ役に立つんだ』とか言いながら投資をしてね」

 五輪では独特な空気を感じ、世界選手権ではそのシーズンの傾向を現地で学んだ。自宅には今も、カナダのツアー会社から便りが届く。

 「最近は選手が出るようになったので行っていませんが、カナダのツアーが一番(大会の)良い席を取ってくれていたんです。一番前の列とか。力があるのか知らないけれど(笑い)。教室では言えないけれど、友だちには『いつか教え子が…(出て欲しい)』と冗談では言っていましたよ」

 近くもあり、遠かった舞台で坂本は、最後までのびのびと滑りきった。いつも通り、サバサバとした口調だが、中野コーチの言葉には強い思いがにじんだ。

 「五輪でも『いつも通りノーミスで』が目標だったので、最後は(3回転ループで)1つミスをしましたが、結果的には回転していたと評価されているので良かったと思います。(結果が)予想通りかといえば、分かりません。まだ何をするか分からない年齢なので、そういう意味では力を出し切って『この舞台でよくやったな』って思います」

 銀メダルのメドベージェワの声が聞こえる取材エリアで、中野コーチは「4年後は狙っていくと思います。心も大人になっていくと思うので、表現力も出てくるでしょうし、内面からも成長していく。4年後は全然違う花織を見せられると思います」と期待を込め、最後は関西人らしく笑ってオチをつけた。

 「8年後は…本人の自由だと思います」

 宮原、坂本だけでなく、2人には日本に残してきた多くの教え子が待っている。22年北京五輪へとつながる新たな4年が、この瞬間から始まった。【松本航】