東京オリンピック(五輪)で初めて正式種目に採用される空手。その“顔”ともいえる存在が女子組手の植草歩(28=JAL)で、本来なら8日、61キロ超級代表として日本武道館で熱戦を繰り広げるはずだった。金メダルを目指して日々の稽古に励むだけでなく、イベントやテレビなどの出演オファーにも積極的に応じ、競技の魅力を発信する役割も担ってきた空手界の看板娘。転機となったのは、公の場での「うそ」だった。

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空手がまだ、五輪競技として正式採用される前のこと。“オリンピック入り”へのアピールの場として全日本空手道連盟が設けた会見に、当時は帝京大の空手部員だった植草も呼ばれた。非五輪競技による国際総合大会ワールドゲームズ(13年)で金メダルを獲得していたとはいえ、5年以上先の東京五輪で、競技を続けている自分の姿は描いていなかったという。卒業後は一線を退き、教師になる道を選ぶつもりだった。

それでも登壇前、ある連盟関係者から受けた提案を、植草は二つ返事で引き受けた。「『夢の舞台で優勝する』って言ってもらえない?」。詰めかけた報道陣を前に、軽い気持ちで、そのまま口にした。

「私は夢の舞台で優勝します」

さわやかな笑顔の写真とともに、そのせりふは翌日のスポーツ紙に大きく掲載された。予期せぬ反響。本心で口にしたのではありません…と撤回するわけにはいかず、その後も機会があるたび、同じ言葉を繰り返すことになった。やがて言葉に重みが増し、胸に自覚が芽生えた。

「あの言葉で魔法をかけられたかのように、どんどん自分が変わっていった。言って良かったと思うし、それを記事にしてもらって良かった」

社会人になっても競技を続け、15年全日本選手権で初優勝。その翌年には世界選手権も制した。メディアからの注目を力に変え、世界最高峰のプレミアリーグでは昨年まで3年連続年間女王の座を獲得。東京五輪代表に内定した際には、「あのときのうその発言が、今では明確な目標になっている」とうなずいた。

植草本人をはじめ複数の関係者によれば、当時、登壇前の彼女に耳打ちしたのは、連盟広報担当の井出将周氏だったという説が濃厚だ。しかしその井出氏は「記憶にないなあ」と、とぼけた口ぶり。「ただ、あのころの植草選手が(競技を)やめる、やめないと言っていたことは覚えている。センスも実力もあるのだから、東京五輪を目指せば良いのに、とは思っていた」と微笑む。

東京五輪開幕1年前を迎えた先日、植草は連盟を通じて談話を発表した。「来年、最高の金メダルを取りたい。日本中、世界中に空手の素晴らしさ、魅力を伝えて優勝したい」。その言葉はうそ偽りのない本心であり、21年8月7日に真実となるはずだ。【奥岡幹浩】

◆植草歩(うえくさ・あゆみ)1992年(平4)7月25日、千葉県生まれ。JAL所属。千葉・柏日体高(現・日体大柏高)から帝京大卒。16年に世界選手権を初制覇し、18年は2位。体重無差別で争う全日本選手権は15~18年に女子初の4連覇を果たした。世界最高峰のプレミアリーグでは17年から3年連続で年間王者に輝く。そのルックスから「空手界のきゃりーぱみゅぱみゅ」と呼ばれたことも。カラオケでは山本リンダの「狙いうち」を熱唱する。168センチ、68キロ。