ラグビー解説者・村上晃一氏(54)が、過去のワールドカップ(W杯)の名勝負、名シーンを紹介するシリーズ第2回は「元イングランド代表主将カーリングの苦悩」です。

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第2回ラグビーW杯は、1991年10~11月にかけて、イングランド協会をホストに開催された。

第1回は招待大会として行われたが、第2回からは世界各地の予選を勝ち抜いたチームが集う本格的な世界大会となった。日本代表は、宿沢広朗監督、平尾誠二主将の時代で、オセアニア・アジア予選でトンガ、韓国を破り、西サモア(現サモア)に次いで2位で予選を突破した。

ラグビーという競技はイングランド北西部のラグビーという町で生まれた。第2回ラグビーW杯は初の母国開催であり、イングランド代表にとって優勝は至上命令だった。

参加16チームを4つに分けた1次リーグではニュージーランド(NZ)に敗れたが、その後は順当に勝ち進み、決勝トーナメントでもフランス、スコットランドを僅差で下し、決勝に進出する。ところが、勝ち進む中で起こったのが、戦い方に対するバッシングだった。キックで陣地を進め、手堅く勝つ戦法をメディアはたたき、関係者も「イングランドのラグビーにはまったく魅力がない」と酷評した。

矢面に立たされたのは、ウィル・カーリング主将(当時25歳)だ。22歳の若さでイングランド代表主将となり、世界屈指のCTBとしてチームを率いるカリスマだった。準決勝のスコットランド戦では、ハイパント攻撃に終始した戦いを問われ、「マレーフィールド(スコットランドのホーム)で勝つには、あれしかなかった」と苦しい言葉を残した。

11月2日、ロンドンのトゥイッケナム競技場は満員の6万人で埋まった。応援歌「スウィング・ロー、スウィート・チャリオット」の大合唱が響き渡る。イングランドはこれまでと打って変わって、パスでボールを動かし、フィールドを広く使って攻めた。大声援で後押しするサポーター。しかし、これらの攻撃は、ことごとくオーストラリアのディフェンスに止められてしまう。結局、トライは奪えず、ノーサイドの笛が鳴った。

メインスタンド中央でオーストラリアのニック・ファージョーンズ主将がエリザベス女王からカップを受ける。その直前、準優勝の表彰を受けるために階段を駆け上がったカーリングは女王の前でしばし立ち止まった。

多くの観客がフィールドになだれ込んでいた(この大会までは、観客がフィールドに降りることができた)。筆者も芝生の上に降りたのだが、そのときのカーリングの表情が忘れられない。彼は、観客に視線を落とし、ゆっくりと顔を上げると、空に向かって小さくうなずいた。愁いを含んだ表情は「これで良かったのか」と自問しているようでもあった。

尊厳ある敗戦。そんな言葉が浮かんだ。ただ勝つだけでは許されない。ラグビーW杯での勝利の意義について、深く考えさせられるワンシーンだった。

◆村上晃一(むらかみ・こういち)1965年(昭40)3月1日、京都市生まれ。10歳でラグビーを始め、京都・鴨沂高、大体大でプレー。現役時代のポジションはCTB、FB。卒業後にベースボール・マガジン社に入社し「ラグビーマガジン」編集長などを歴任。98年に退社し、その後はフリーとして活動。