延期になった東京大会、練習もできず、先も見えない環境でも、選手たちの思いは変わらない。苦しく、厳しい状況の中で五輪を戦ったオリンピアンたち。過去の五輪を取材した日刊スポーツの記者たちが、生で見た選手の力、苦境を脱して輝いた感動のシーンを振り返る。

■鬼迫 88年ソウル柔道男子95キロ超級・金 斉藤仁

88年10月、ソウル五輪柔道男子95キロ超級表彰式 金メダルを首から下げ目を閉じて感慨にふける斉藤仁
88年10月、ソウル五輪柔道男子95キロ超級表彰式 金メダルを首から下げ目を閉じて感慨にふける斉藤仁

ソウルの蚕室体育館、記者席は重苦しい雰囲気だった。前年の世界選手権では4階級制覇、連日日本勢の金メダル原稿を書く気満々で大会を迎えた。しかし、現役世界王者が次々と敗れて、期待の古賀稔彦も力尽きた。金メダル0のまま迎えた最重量級、決勝戦の畳に斉藤仁が上がった。

相次ぐ負傷で満身創痍(そうい)、歩くのもつらそうだった。140キロの体でバック転する運動神経、180度開脚の柔軟性、誰もが恐れた体落とし…、最強柔道家の姿はなかった。あるのは気迫、いや「鬼迫」だけ。豪快な一本勝ちにはほど遠い、前に出るだけの「押し相撲」でストール(東ドイツ)に優勢勝ちした。4年間の苦悩を知るだけに涙が出た。

実は大会直前には異例の「代表辞退」まで申し出ていた。動かない体で、不安しかない。上村春樹監督に「僕でいいんですか。(代表を)代わった方がいいのでは」と。監督は「お前しかいないよ」と言い「金メダルに必要なのは技や力じゃない」と続け「ここだよ」と自分の胸をたたいたという。斉藤は「1人じゃ金は無理よ。みんなの力があってとれる」と話した。

強化委員長として東京五輪を目指した15年1月、54歳で亡くなった。女子選手へのパワハラで揺れた柔道界の再建に尽力していたころ「大変だけど、今はやれることをやるだけよ」と言って黙々と仕事をこなしていた。何があっても目標を見失わず、努力と忍耐で乗り切った男らしかった。【荻島弘一】

88年10月、ソウル五輪男子柔道95キロ超級で金メダルを獲得した斉藤仁はガッツポーズ
88年10月、ソウル五輪男子柔道95キロ超級で金メダルを獲得した斉藤仁はガッツポーズ

◆斉藤仁(さいとう・ひとし)1961年(昭36)1月2日、青森市生まれ。筒井中から、国士舘高、国士舘大と進む。84年ロサンゼルス、88年ソウルの両五輪で95キロ超級連覇。83年世界選手権無差別級優勝、86年アジア大会95キロ超級優勝、88年全日本選手権優勝。当時、五輪連覇は柔道界では初めての快挙だった。全日本柔道連盟強化委員長、国士舘大教授を歴任。15年1月20日、肝内胆管がんのため54歳で死去。180センチ。

■覆す 92年バルセロナ陸上女子マラソン銀 有森裕子

92年8月、バルセロナ五輪女子マラソンで2着でゴールした有森裕子(右)は、優勝したワレンティナ・エゴロワと肩を組む
92年8月、バルセロナ五輪女子マラソンで2着でゴールした有森裕子(右)は、優勝したワレンティナ・エゴロワと肩を組む

バルセロナ五輪女子マラソンのクライマックス、エゴロワと有森裕子の一騎打ちが忘れられない。抜いて抜かれて、食らいつく。諦めない有森は、モンジュイックの丘の上にあるスタジアム手前で3度目のスパートをかけたが、逆に引き離されてしまう。金メダルこそ逃し銀メダルも、ゴール後の表情は晴れやか。代表選考問題でうっ積したものを、全て吐き出した瞬間だった。

「あのことがあったから、今の私がある」。レース後の会見で言った。テレビのワイドショー番組までが取り上げ、日本中が大騒ぎした松野明美との代表選考問題。前年の東京世界陸上4位で有力候補となったが、その後の選考レースを故障で回避した有森が悪役に回った。代表決定後、岡山の実家を訪ねた時、嫌がらせの電話が繰り返し鳴り、抗議の手紙も頻繁に届くと聞いた。「有森を選んでよかった、と思ってもらえる走りをしたい」。逆境を糧に、チャンスを生かそうと準備に集中した。

レース当日もハプニングが起きていた。朝、右目のコンタクトレンズをなくしてしまったのだ。予備はなく、視力は0・05。隣にいる人の顔も見分けられない状態のまま走り、自分の順位もよくわかっていなかった。だが、災いが逆に前半、自分のペースを守り無駄な消耗を抑えられた。給水も失敗しなかった。目標を上回るメダル獲得に、有森本人よりも、選考した陸連幹部が大はしゃぎしていたのを覚えている。

その後もさらに逆境力に磨きをかけた。プレッシャーや足の手術を乗り越え、アトランタ五輪でも銅メダル獲得。「自分で自分をほめたいと思います」の偉業を成し遂げ、プロランナーとして活躍の幅を広げていった。【福永美佐子】

92年8月、バルセロナ五輪女子マラソンで2着でゴールする有森裕子
92年8月、バルセロナ五輪女子マラソンで2着でゴールする有森裕子

◆有森裕子(ありもり・ゆうこ)1966年(昭41)12月17日、岡山市生まれ。日体大を経て89年リクルート入り。90年大阪国際で初マラソン日本最高(当時)、91年同大会で2時間28分1秒の日本最高(同)。五輪は92年銀、96年銅。99年のボストンで2時間26分39秒の自己ベストで3位。07年に引退。

■証し 96年アトランタ陸上男子走り幅跳び金 カール・ルイス

96年7月、アトランタ五輪男子走り幅跳びで4連覇を達成したカール・ルイスは砂を持ち帰る
96年7月、アトランタ五輪男子走り幅跳びで4連覇を達成したカール・ルイスは砂を持ち帰る

ウイニングランを終えたカール・ルイス(米国)がフィールドに戻ってきた。走り幅跳びの着地点にかがみ込み、砂を両手で2杯分だけすくい上げると、半透明の袋に入れて胸に抱いた。栄光を刻んだ35歳の老雄の姿が、まるで甲子園球児のように初々しく見えた。

96年アトランタ五輪の陸上男子走り幅跳びで、4連覇を達成した直後のシーンである。意外な行動の理由を彼は会見でこう明かした。「今まで手にしたメダルの中で一番うれしい。最も痛みを伴って取れたものだから。砂を記念に持って帰ろうと思ったんだ」。

84年ロサンゼルス五輪で4冠に輝いて以来3大会で8個の金メダルを手にした。五輪史上最高のアスリートといわれた。そんな彼にもたそがれが迫っていた。大会直前の全米選手権では100メートルの代表を逃し、走り幅跳びも3番目で辛うじて手にしたもの。彼の時代は去ったと言われていた。

そんな時の流れにルイスはプライドを捨ててあらがった。敬遠していた筋力トレーニングを取り入れ、集中力を高めるためヨガにも取り組んだ。減量のために1週間野菜ジュースだけの生活を送ったとも語った。9個目の金メダルは衰えゆく自らの肉体との闘いに打ち勝った証しだったのだ。

「私は15年間、特別な選手として扱われてきた。勝つと『当たり前だ』と言われた。今日は期待されていなかったので、リラックスできたよ」。会見の終盤に彼は笑いながら言った。このコメントを聞いた時、ずっと雲の上の存在だと思っていたルイスが、等身大の人間に見えてきて、自分との距離がグッと縮まった気がした。【首藤正徳】

96年7月、アトランタ五輪男子走り幅跳びで、カール・ルイスが8メートル50で4連覇達成
96年7月、アトランタ五輪男子走り幅跳びで、カール・ルイスが8メートル50で4連覇達成

◆カール・ルイス 1961年7月1日、米アラバマ州生まれ。84年ロサンゼルス五輪で100メートル、200メートル、走り幅跳び、400メートルリレーの4種目すべてに金。88年ソウル、92年バルセロナ、96年アトランタまで4度の五輪出場。合計10個のメダルを獲得し、うち9個が金。競技人生で11度の世界記録をマーク。100メートルの自己ベストは9秒86。現役時代のサイズは、190センチ、88キロ。

■象徴 00年シドニー陸上女子400メートル金 キャシー・フリーマン

00年9月、シドニー五輪陸上女子400メートル金メダルのキャシー・フリーマン(左)はゴールするとそのまま座り込み仲間に祝福された
00年9月、シドニー五輪陸上女子400メートル金メダルのキャシー・フリーマン(左)はゴールするとそのまま座り込み仲間に祝福された

およそ勝者のそれではなかった。フィニッシュラインを駆け抜けた彼女の顔はまるで、何か過ちを犯したかのように血の気がうせたかのよう。精根尽き果て164センチの体を突っ伏した。その体に、スタジアムを埋めた11万2524人の大歓声が浴びせられる。コントラストが、あまりにも鮮明だった。

20世紀最後の五輪で最大のテーマは「民族融和」。地元オーストラリアの先住民アボリジニの女子陸上選手、キャシー・フリーマンは平和と融合の象徴とされ大会成否は、その双肩にかかっているともいわれた。大会11日目の女子400メートル決勝。同国通算100個目の金メダル獲得は、プレッシャーから解放された瞬間でもあった。

5万年前から住みつきながら、18世紀後半の白人入植後は土地略奪や大量虐殺にあい、激減したアボリジニ。先住民の象徴と同時に「国」の期待も背負ったフリーマンは、両方(国とアボリジニ)の旗を手にウイニングランをした。五輪憲章違反ではという見方は、開会式のサマランチIOC会長のあいさつで容認された。「いろいろな背景を持っている人々がオーストラリアを自分の祖国と呼べることは誇り」と話したフリーマンは表彰式で、国歌を笑顔で口ずさんだ。開会式の聖火点火者として初の金メダル獲得。その右肩の入れ墨には、日本語で「私は自由」を意味する言葉がしるされていた。【渡辺佳彦】

陸上女子400メートル決勝で金メダルを獲得したキャシー・フリーマンはスタート前、気合を入れる
陸上女子400メートル決勝で金メダルを獲得したキャシー・フリーマンはスタート前、気合を入れる

◆キャシー・フリーマン 1973年2月16日、豪クイーンズランド州マッケー生まれ。6歳から陸上を始め、92年バルセロナ五輪でアボリジニ初の代表に。96年アトランタ五輪で陸上400メートルで銀メダル。世界選手権同2連覇。00年シドニー五輪同金メダル。03年7月に引退。164センチ、52キロ。