大学院時代の恩師に教えてもらった話がある。ある入試で著作物が国語の試験に使用された。文章に横線が引いてあり、設問は「この時の作者の意図することは何か。以下の4つの中から選びなさい」。よくある問題形式に、恩師は「いやあ、その4つの中に意図したことが入ってなくて。どれも正解がなかったんだけど…」と。

表現者と受け手の齟齬(そご)。その一例として教えてもらった体験談だったが、いま世論の逆風の中で開催に向けて盲進するように映る東京オリンピック・パラリンピックを巡る言説に触れると、たびたびその話を思い出す。

「勇気と希望」。そのフレーズが、いつもそのきっかけだ。今月14日、開催の意義を問われた菅義偉首相は、「世界最大の平和の祭典であり、国民に勇気と希望を与える」と述べた。組織委員会の幹部などの発言でも文脈を同じくして耳にするが、その度にその説明の具体性のなさに心が冷める。感染が沈静化しない中での開催の意義としてあまりにも脆弱(ぜいじゃく)というのは、この言葉を繰り返す度に中止、延期の声が高まっていくように感じる世論に明らかだろう。

ただ、繰り返すのは政治家だけではない。「勇気を希望を届けたい」と話すアスリートも少なくはない。そこに違和感を覚える。順序が違うと思うからだ。アスリートはあくまでも自分自身や近しい人間のためにスポーツに打ち込み、結果を求めている。そこに不特定多数への感情が入り込んではいない。それで完結し、その姿を不特定多数の受け手が見る中で、誰かに「勇気や希望」が生まれることもある。最初から「勇気と希望を与える」ためにプレーする必要はない。

コロナ禍での開催意義に関して頭を悩ますがゆえだろうか。平時なら聞こえない「勇気と希望」という言葉が多くのアスリートから聞かれる。そのフレーズは、容易に政治家などの背広組が口にする言葉と同レベルに落とし込まれ、むしろ逆風を助長するようにすら感じる。

アスリートは「表現者」であると思う。その運動で何かを示せばいい。いまは冒頭の国語の問題ではないが、「そのプレーが意図することは何ですか」という設問が用意され、4つの中から「勇気と希望」を自ら選択しているかのよう。この状況下でスポーツを行い、オリンピックで戦いたい。その動機はさまざまで当たり前であり、受け手の答えから逆算する必要はないのではないか。【スポーツ担当 阿部健吾】