われらが「キング」へ-。体操鉄棒のH難度の大技「ブレトシュナイダー」の本家、アンドレアス・ブレトシュナイダー(31=ドイツ)への上下2回のインタビュー。2回目は同じ1989年生まれ、同じく東京オリンピック(五輪)を目指す者として、内村航平(32)への敬意がこもる熱きメッセージを聞いた。ケガの影響で種目を鉄棒に絞らざるを得ない苦境でも、不変の称賛のまなざしと確信がそこにはあった。【取材・構成=阿部健吾】

鉄棒用のプロテクターをはめるブレトシュナイダー(本人提供)
鉄棒用のプロテクターをはめるブレトシュナイダー(本人提供)

「コウヘイなら東京オリンピックで金メダルを獲得することができるでしょう」

素直な確信だった。ブレトシュナイダーは力強く、内村の母国開催での戦いを予想した。いまも競技者であり、鉄棒では好敵手となる可能性もあるにもかかわらず、その直感にためらいはない。

「私たちは似ている技術を持ち、同じようなDスコア(技の難度を示す演技価値点)があり、そして彼と五輪の決勝で競っていけたらこれ以上の楽しみはありませんね」

競えることが最高の喜びと言う。自分の勝敗を超えて意識する対象となっていることが、内村の体操界での存在感を透かした。

確かに「似ている」。ともに1989年生まれ、母は体操選手、身長は160センチ台。10代から世界大会で結果を残し続けてきた内村に対し、12年ロンドン五輪落選も味わった国際大会での成績では大きな開きがあるのは事実だが、重なる部分の多さに人一倍の共感を覚えるのだろう。

特にここ数年は、互いにケガとの格闘の日々だ。悲願だったリオデジャネイロ五輪では、直前のテスト大会の鉄棒で2位となる15・600点。本番でのメダルも期待されたが、予選で落下。決勝に進むことなく戦いを終えた。16年12月には左肩、年が明けた17年すぐには右肩を手術。懸命なリハビリを経験してきた。いまもケガに付き合う。だから、苦境が分かる。

内村はリオで個人総合2連覇を遂げた後は体からの悲鳴が続いた。世界選手権は17年に左足負傷で予選で棄権すると、18年も右足首痛で個人総合を回避。さらに19年に入ると両肩痛は激しさを増し、4月の全日本選手権で予選落ち。世界舞台の代表権も失った。20年夏には種目別の鉄棒に専念して、東京五輪の金メダルを目指す決断を下した。完治はない体と相談しての苦渋の選択だった。

「いつも最高の状態で戻ってくることを望んでいました」。ブレトシュナイダーはその近況を常に気にかけていたという。肩という負傷箇所のつらさの理解もある。その上で、鉄棒専念後の内村の演技に「彼が鉄棒のスペシャリストになれると確信してますし、個人総合の6種目から離れても、心から彼のすごさは分かる。現時点ではDスコアは6・6ですが、このスコアを上げることもできるでしょう」と予言する。

20年11月、体操国際競技会「Friendship and Solidarity 友情と絆の大会」で、鉄棒の演技を終えガッツポーズする内村
20年11月、体操国際競技会「Friendship and Solidarity 友情と絆の大会」で、鉄棒の演技を終えガッツポーズする内村

コロナ禍で、東京五輪はさまざまな変容を余儀なくされるだろう。ただ、そこが日本とドイツ、2人の体操選手にとって集大成の舞台である事実は変わらない。ケガとも闘い、同じ技を武器に、ひたすらに頂点を目指す。最後、ブレトシュナイダーは、こう「キング」へメッセージを送った。それは熱きエールだった。

「私たちは同じ年齢で、ご存じのように、永遠に体操選手でいられるわけではありません。だからこそ、私たちのどちらにとっても偉大なキャリアのハイライトになりますね。特に彼にとっては母国ですからね。その上で言わせてください。『コウヘイ、集中し続け、健康で、常にあなたがどれだけ強いかを思い出し続けてください! 人生に幸あれ! 夏に会えるのを楽しみにしてます!』」

◆内村の五輪への道 東京五輪の代表枠は最大で6人。4人が団体枠で選考されるが、狙うのは最大2枠の個人枠。今月からの全日本選手権、NHK杯、全日本種目別選手権の結果で、代表権がかかる。種目別のスペシャリストは鉄棒だけでなく、他5種目の選手もライバルとなり、国内の代表争いが待つ。

<リオ五輪後の内村航平>

◆17年10月 世界選手権(モントリオール)の個人総合予選の跳馬で左足を負傷し途中棄権。09年から続いた史上最多の連覇記録が「6」で止まる。国内外の大会を含め、連勝も「40」で止まる。

◆18年10月 世界選手権(ドーハ)では、9月に負傷した右足首の影響で個人総合を断念。団体では4種目で演技し銅、種目別鉄棒で銀を獲得。

◆19年4月 両肩痛を抱えたまま臨んだ全日本選手権の予選で、平行棒で左肩を痛めて落下した。予選落ちに終わり、「次には生きない」「笑うしかない」「(東京五輪は)夢物語」。

◆同12月 故郷の長崎で所属先のイベントに出席。「本当に『痛』の一文字」と19年を振り返る。春先から治療で刺した注射は「通算100本超え」で完治はないが、「自分が五輪に出られないとはどうしても考えられない」と話す。

◆20年6月 故障の影響から東京五輪で個人総合への出場を断念し、鉄棒に絞って出場を目指す決断を下す。

◆同7月 写真投稿サイト「インスタグラム」の国際オリンピック委員会(IOC)の公式アカウントで開かれた1年前企画で、ライブ中継に登場。「このまま6種目をやってても、五輪が現実味を帯びてこないなと。鉄棒なら確実に五輪を目指せる自信があった。痛みなく五輪にいけるほうがいいかなと思って決断しました」と説明。

◆同9月 全日本シニア選手権で1年ぶりの再起戦に臨み、鉄棒で14・200点の6位。新技「ブレトシュナイダー」では連続技につなげられず。「悔しい気持ちが8割、1割はどうしてなんだろう、もう1割はしょうがないか、という気持ちですね」。

◆同10月 11月の国際大会へ向けたPCR検査で1度は新型コロナウイルスの感染が発表されたが、「偽陽性」と判断された。

◆同12月 全日本選手権兼全日本種目別選手権の予選、決勝と「ブレトシュナイダー」に成功。決勝では15・700点で優勝。19年世界選手権優勝者の得点(14・900点)を大きく上回る。「鉄棒に絞って3戦目になり、ようやく鉄棒に合わせる能力が高まってきた」。