楽しんで…ゲームでなく明治5年の青空ノックを採用/祝! 野球伝来150年〈1〉

この素晴らしき球技が伝来して、2022年で150年…でも、何をもって「伝来」とするんだろう? タイムマシンに乗り込んで、野球のルーツを探る不定期の長期連載です。

その他野球

日本に野球が伝来した年を巡る〝ミステリー〟を知っていますか?

1872年(明5)、お雇いアメリカ人教師ホーレス・ウィルソンにより野球が伝えられた。

第一大学区第一番中学(のちの東京帝国大学、今の東大)の学生たちに教えたのが始まりとされる。

今年は伝来150年。プロ、アマ挙げた記念事業が展開されている。

東京ドームにある野球殿堂博物館は、6月8日まで「野球伝来150年記念展」の第2期展示を開催。1959年(昭34)の天覧試合でサヨナラ本塁打を放った、巨人長嶋のバットなどを見ることができる。

伝来100年の時にも「日本野球100年展」が開かれた。当然、50年前の1972年(昭47)のことだと思われるだろうが、違う。「100年展」は、1年あとの73年9月15日に始まった。

つまり、49年前。この1年のズレは、何を意味するのだろう?

当時は、日本に野球が伝わったのは1873年(明6)と考えられていたのだろうか? そうだとすれば、なぜ、この50年で伝来の年が1年、早まったのか?

謎を解くべく、野球殿堂博物館へ向かった。

■1年ズレてる

事業部次長で、主任学芸員の関口貴広さんが教えてくれた。

関口さん 100年展は「わが国で初めて野球が行われてから100年」ではなく「初めて試合形式による野球が行われてから100年」を記念したものだったんです。

違いを理解するには、ウィルソンが野球を教えた場所を考えると分かりやすい。

まずは1872年、第一番中学の学生たちにノックなどを始めたのが最初だった。翌73年、第一番中学が開成学校と改称されてから、試合を行うようになった。

1年をかけて、野球の基礎をたたき込んだともとれるが、もっと単純な理由があった。運動スペースの問題だ。

関口さん 水道橋から、白山通りを進んで右側(西側)に如水会館、左側(東側)に学士会館があります。もともと、第一番中学は如水会館側にあったそうです。ただ、そこにはちゃんとしたグラウンドがなかった。学士会館側に移り、明治6年に開成学校になったタイミングで、しっかりした運動場が整備され、初めて試合形式の野球が行われたという流れのようです。

物理的にも、72年の段階で試合は不可能だった。ノックやキャッチボールが、せいぜいだったというわけだ。

これを裏付ける証拠として、明治時代の新聞を紹介したい。

1896年(明29)7月22日の日本新聞に「野球の来歴」と題した文章が載った。「好球生」なるペンネームの人物による投書。現代仮名遣いに改めて一部を抜粋する。

■「ウィルソンと云える米国人あり」

「…(前略)そもそもベースボールのはじまりは明治五年の頃なりし。今の高等商業学校の処に南校という学校あり。」

「明治五年頃は第一大学区第一番中学と名付けて唯一の洋学校なりしが、英語、歴史などを教うるウィルソンと云える米国人あり。」

「此人常に球戯を好み、体操場に出てはバットを持ちて球を打ち、余輩に之を取らせて無上の楽しみとせしが、ようやくこの仲間に入る学生も増加し、明治六年第一番中学の開成学校と改称し、今の錦町三丁目に広壮の校舎建築成り、開校式には行幸などもあり、運動場も天覧ありし位にて広々と出来たりし事故、以前に変りて体操の方法も拡張し来り…(中略)…此頃よりいつとなく余輩の球戯も上達し打球は中空をかすめて運動場の辺隅より構外へ出るほどの勢を示せしが、ついには本式にベースを置き組を分ちてベースボールの技を始むるに至れり…(後略)」

明治5年の段階では、ウィルソンが「体操場に出てはバットを持ちて球を打ち、余輩に之を取らせて無上の楽しみとせし」とある。学生たちにノックをしていたと読めるが、この体操場は試合をするだけの広さはなかったのだろう。

それが明治6年になって、校名が第一番中学から開成学校に改称されてからは、運動場が「広々と出来」、学生たちの技術も向上した。打球が運動場から外に飛び出すまでになり「ついには本式にベースを置き組を分ちてベースボールの技を始むるに至れり」。つまり、試合を行うようになった、と読める。

野球殿堂博物館に飾られているホーレス・ウィルソンのレリーフ

野球殿堂博物館に飾られているホーレス・ウィルソンのレリーフ

大正時代になって大阪朝日新聞が出した「朝日野球年鑑」にも、明治6年の頃、開成学校でウィルソンが野球を教え「恐らく我国の空中に野球のボールが飛ばされたイの一番であろう」とある。

野球殿堂博物館は、これらの記述を元に明治6年から起算して100年展を準備したようだ。

それでも謎は残る。

100年展を開いた49年前の時点でも、もちろん野球殿堂博物館は日本新聞に載った投書は把握していた。明治5年で既にノックが行われていたことは分かっていた。

では、なぜ野球伝来の起源を「明治6年の試合形式」から「明治5年のノック」に変えたのか?

関口さんは「試合をやったことを重く取るのか、それともキャッチボールやノックといった野球の要素的なもので起源と取るのか、だと思います」と説明した上で、あることで決定的になったのでは、と続けた。

■転機は2003年

ホーレス・ウィルソンの野球殿堂入りだ。

関口さん もともと当館が1988年に東京ドームに移転するタイミングで、それまでの調査から、常設展示を「明治5年の伝来」に変更してはいました。2002年、2003年の2年間限定で野球殿堂に「新世紀特別表彰」というカテゴリーができ、ウィルソンを殿堂入りの候補に挙げるタイミングで、明治5年の方に大きくかじを切ることになったのだと思います。

02年の正岡子規、フランク・オドールに続き、ウィルソンは03年、鈴鹿栄とともに殿堂入りした。

明治5年であれ、6年であれ、ウィルソンが日本に野球を伝えた人物であることは、現在までの研究では異論がない。栄えある殿堂入りに際し、5年を伝来の年とする評価が固まった。

要は「野球伝来」とは何なのか? ということになる。

実は、野球そのものは明治5年どころか、遅くとも既に4年の時点で日本に上陸していたことが分かっている。

子どもの頃、平和台球場で見た情景がプロ野球観戦の原点。大学卒業後は外務省に入り、旧ユーゴスラビアのセルビアやクロアチアの大使館に勤務したが、野球と縁遠い東欧で暮らしたことで、逆に野球熱が再燃。30歳を前に退職し、2006年6月、日刊スポーツ入社。
その夏、斎藤佑樹の早実を担当。いきなり甲子園優勝に立ち会うも、筆力、取材力及ばず優勝原稿を書かせてもらえなかった。それがバネになったわけではないが、2013年楽天日本一の原稿を書けたのは幸せだった。
野球一筋に、横浜、巨人、楽天、ロッテ、西武、アマチュアの担当を歴任。現在は侍ジャパンを担当しており、3月のWBCでは米・マイアミで世界一を見届けた。
好きなプロ野球選手は山本和範(カズ山本)。