【あの夏1969:8/18-19松山商VS三沢】太田幸司のアナザーストーリー

かつては荒木大輔、近年では斎藤佑樹、根尾昂が該当するでしょうか。甲子園で極限まで膨らんだ期待値と向き合い、苦労しながらも成長していく…元祖は、略歴の写真が端正すぎ! なこの方です。一世一代の勝負をかけようと意気込む近鉄の太田幸司を、あの名選手がアシストします。(2020年8月18日掲載。所属、年齢などは当時)

高校野球

三沢(青森)のエースで69年夏の甲子園準優勝を果たした太田幸司さん(68)は、1位指名で入団した近鉄で7度の球宴出場を経験した。プロ1年目の70年から3年連続ファン投票1位で出場。実績が伴わずに肩身の狭い思いをしたが、プロとして生きる道を教えてくれたのは72年球宴の甲子園での先発だった。球場に力をもらい、名捕手・野村克也に支えられた復活の夢舞台を振り返る。

◆太田幸司(おおた・こうじ)1952年(昭27)1月23日、青森県三沢市生まれ。三沢2年夏から3季連続甲子園出場。3年夏には松山商と大会史上初の決勝戦延長18回0-0引き分けの熱戦を演じた。翌日の再試合に2-4で敗れ準優勝。69年ドラフト1位で近鉄入団。75年12勝をはじめ2桁勝利3度。巨人、阪神を経て84年引退。通算318試合、58勝85敗4セーブ、防御率4・05。現役時代は176センチ、76キロ。右投げ右打ち。勝衣夫人との間に2男1女。MBS解説者として活躍する傍ら、09年8月から日本女子プロ野球機構のスーパーバイザー。

★井上明との投手戦…翌日惜敗

「投手・太田幸司」は、甲子園で2度生まれた。

69年夏の甲子園決勝。松山商(愛媛)・井上明との白熱の投手戦は0-0のまま延長18回を終え、翌日の引き分け再試合で惜敗した。

東北に夢を見せた美貌のエースは、甲子園のアイドルに。熱狂とともにプロ野球に迎えられ、1年目から球宴メンバーに選ばれた。

太田自分の第2の、プロ野球人としてのスタートの場所になったのはオールスターですね。

70年から3年連続ファン投票1位で出場。3年目の72年、人生をかけて太田は球宴に臨むことになる。

再試合の末、優勝を決めた中村投手(中央)、大森捕手(右)ら松山商ナイン=1969年8月19日

再試合の末、優勝を決めた中村投手(中央)、大森捕手(右)ら松山商ナイン=1969年8月19日

太田どん底に落ちて、新しいプロとしての太田幸司のピッチングを作りたい。そういう気持ちで臨んだオールスターでした。

1-0で全セが勝ち、全パ先発の太田は3回1失点で黒星がついた。ただ巨人王貞治、長嶋茂雄を2打数無安打に抑えた。乾坤一擲(けんこんいってき)の勝負をかけた結果だった。

プロ1年目の太田は開幕1軍入りし、4月14日ロッテ戦(日生)の救援でプロ初登板初勝利を挙げた。

同年は1勝4敗に終わるも、手応えをつかんだ。

決勝の試合前、レジェンド始球式を務めた三沢OBの太田幸司氏(左)。右は松山商OB井上明氏=2018年8月21日

決勝の試合前、レジェンド始球式を務めた三沢OBの太田幸司氏(左)。右は松山商OB井上明氏=2018年8月21日

★頭から離れない三沢時代

だが2年目、状況は暗転した。

古代の王国トロイを発見したシュリーマンにあこがれ、考古学者を目指して西洋史学科に入学するも、発掘現場の過酷な環境に耐えられないと自主判断し、早々と断念。
似ても似つかない仕事に就き、複数のプロ野球球団、アマ野球、宝塚歌劇団、映画などを担当。
トロイの 木馬発見! とまではいかなくても、いくつかの後世に残したい出来事に出会いました。それらを記事として書き残すことで、のちの人々が知ってくれたらありがたいな、と思う毎日です。