【夢幻のグローバル・リーグ:第8話】森徹監督の教えを守り…歌舞伎町「夜の帝王」

野球が日本に伝わり、2022年で150周年を迎えました。野球の歴史を振り返る不定期連載Season2は、国際化の先駆けとも言える、あるリーグに焦点を当てます。事実は小説よりも奇なり、全9回の長編、大詰めの第8話です。(敬称略)

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「ドラゴンズ」名付け親 関根勇さん

日本チームのニックネーム「ドラゴンズ」は、監督の森徹が中日出身だったことに由来する。名付け親は、元広島、サンケイ(現ヤクルト)で、東京ドラゴンズの一塁手を務めた関根勇だ。

関根 チーム名を考えようとなったとき、僕が「おやじさん、ドラゴンズだったんだから、東京ドランゴンズでいいじゃないですか」と言ったら「おお、そうだな」となりました。

今年で78歳の関根は懐かしんだ。今でも森のことを「おやじさん」と慕う。

◆森徹(もり・とおる)1935年(昭10)11月3日、旧満州(現中国東北部)生まれ。早大学院から早大に進む。東京6大学リーグでは立大・長嶋と同期で、強肩強打の外野手として活躍。58年に中日入りし、2年目で4番を打ち、31本塁打、87打点の2冠。1年目の58年から3年連続で外野手のベストナインに選ばれた。62年から大洋(現DeNA)、66年から東京(現ロッテ)。68年限りで引退。通算1177試合、971安打、189本塁打、585打点、打率2割5分1厘。武道の達人でもあり、柔道、合気道、空手で6段。14年2月6日、肝細胞がんのため死去。78歳。現役時は173センチ、95キロ。右投げ右打ち。

出会いは昭和43年の夏過ぎ。神奈川・横須賀にあったサンケイの2軍球場の武山球場だった。東京(現ロッテ)との2軍戦に敗れた関根たちは、コーチから罰走を課せられた。自らを「跳ねっ返り」と認める関根は、陸上出身のそのコーチにかみついた。「野球を知らないくせに、偉そうに言うな ! 」。

「おい、そこの若いの」

聞きとがめたのが、相手チームにいた森だ。中日時代には本塁打と打点のタイトルに輝いた球界指折りの強打者。だが、濃人監督との確執もあり、2軍に落とされていた。

「おい、そこの若いの」と呼ばれた。「監督、コーチとけんかしたら、プロ野球はいいことないぞ。我慢しろ。お前、いいバッティングしてるな。なんで1軍で使ってもらえないんだ。短気、起こすなよ」と諭された。

東京ドラゴンズに参加した関根勇さん(関根さん提供)

東京ドラゴンズに参加した関根勇さん(関根さん提供)

関根 大スターですからね。「はい ! 」って飛んでいきました。それが最初でした。

このことがきっかけで、森を慕うようになった。2軍戦で会えば、敵チームでもお構いなし。打撃のアドバイスを求めた。「お前のチームに、いいバッティングコーチがいるじゃないか。そんなことするからコーチに嫌われて、1軍に推薦されないんだ。世渡り下手だな」とあきれられたが、こうも言ってくれた。「チャンスは来るからな」。

果たして、その年のオフにチャンスは来た。

子どもの頃、平和台球場で見た情景がプロ野球観戦の原点。大学卒業後は外務省に入り、旧ユーゴスラビアのセルビアやクロアチアの大使館に勤務したが、野球と縁遠い東欧で暮らしたことで、逆に野球熱が再燃。30歳を前に退職し、2006年6月、日刊スポーツ入社。
その夏、斎藤佑樹の早実を担当。いきなり甲子園優勝に立ち会うも、筆力、取材力及ばず優勝原稿を書かせてもらえなかった。それがバネになったわけではないが、2013年楽天日本一の原稿を書けたのは幸せだった。
野球一筋に、横浜、巨人、楽天、ロッテ、西武、アマチュアの担当を歴任。現在は侍ジャパンを担当しており、3月のWBCでは米・マイアミで世界一を見届けた。
好きなプロ野球選手は山本和範(カズ山本)。