【夢幻のグローバル・リーグ:最終話】希望の船出 失意の会見…森徹の腕に愛娘
野球が日本に伝わり、2022年で150周年を迎えました。野球の歴史を振り返る不定期連載Season2は、国際化の先駆けとも言える、あるリーグに焦点を当てます。事実は小説よりも奇なり。群像劇の最終話、主人公の娘が回顧します。(敬称略)
その他野球
ジャズシンガー 郁さん
森郁(もり・いく)の耳には、父の言葉がはっきりと残っている。15年以上前、電話だった。
「パパが取らなかった新人賞を、お前が代わりに取ってくれてありがとう」
父・徹の話をすると、今も涙がこぼれてしまう。
郁は30歳を過ぎてからジャズシンガーになった。会社員から転身し、夢をかなえた。だが、父は許してくれなかった。知人のお店でマイクを握る生活。
郁 夜の世界だし、お酒もある。父としては嫌だったのでしょう。
同じ家に住みながら、しばらくは口をきいてもらえなくなった。
気まずさが拭えないまま、デビューから5年あまり過ぎた頃。あるジャズ雑誌の新人賞に輝いた。結果を知るのが怖くて、友人の家で連絡を待った。父にはオーディションを受けたこと自体、伝えていなかった。朗報が届くと、すぐに電話をかけた。
「新人賞、とりました」
無念晴らす新人賞
娘の泣き声に身構える父。顚末(てんまつ)を知り、返ってきた言葉が「お前が代わりに取ってくれてありがとう」だった。
早大の森徹は、東京6大学を代表する強肩強打の外野手だった。学生離れした筋骨隆々の体で神宮にアーチをかけ、4度のベストナインに輝いた。58年に中日入団。1年目から23本塁打、73打点、打率2割4分7厘を残した。
新人として十分な働きだったが、新人王は同じ東京6大学の立大から巨人に入った長嶋茂雄にさらわれた。「王」と「賞」の違いはあれ、同じ「新人」に送られる賞。どんなに娘が誇らしかったか。
郁 そこからは、ずっと許してくれて。ライブにも来てくれたし、一緒にCDもとりました。私の声よりもパパの声の方が褒められて。
デュエット曲を出した父とのツーショット。飛び切りの笑顔を見せてくれた。
子どもの頃は厳しかった。3人兄弟の末っ子で、唯一の女の子。中学2年まで、門限は午後5時だった。
「減点パパ」出演 三波伸介のお願い
それが、ちょっとだけ遅くなったのは、テレビ番組がきっかけだった。NHK「お笑いオンステージ」の名物コーナー「減点パパ」に親子で出た。門限を知った司会の三波伸介が「6時半ぐらいにしていただけませんか」と言ってくれた。
郁 それで6時半になったんです。三波伸介さんのおかげ。でも、それが二十歳まで続いたんですよ。
現役引退後は実業の世界に身を置いた父。出張先からも毎日、電話がかかってきた。「郁を出せ」。門限を守っているかの確認だった。
郁 とにかく、うるさいし、厳しかった。でも、愛情はいっぱいだったと思います。今思えば、とにかく危ない目に遭わせてはいけないという思いだったのだと思います。
飛行機は父と一緒でないと乗せてもらえなかった。
郁 短大の卒業旅行にも行かれなかったんです。仲良し8人組でハワイに行きたかったんだけど。父がどうしても心配して、ダメだって。
遊びたい盛り。時に反発し、けんかもしたが…。
1977年3月生まれ、福岡市出身。平和台球場がプロ野球観戦の原点。センター裏のうどんが美味しかった。高校ではラグビーにいそしんだが、背番号はだいたい18番。取材でも控え選手に引かれる理由かも。
大学卒業後は外務省に入り、旧ユーゴスラビア諸国で勤務。街中を普通にプロシネチキが歩いているような環境だったが、サッカーには入れ込まなかった。むしろ、野球熱が再燃。30歳を前に退職し、2006年6月、日刊スポーツ入社。斎藤佑樹の早実を皮切りに、横浜、巨人、楽天、ロッテ、西武、アマチュア、侍ジャパン、NPBと担当を歴任。現在はデスク、たまに現場。
好きな選手は山本和範(カズ山本)。オールスターのホームランに泣いた。
