【長崎にプロ野球がやってきた:第1話】昭和25年の西日本VS大洋 その場所は…

野球が日本に伝わり、2022年で150周年を迎えました。野球の歴史を探る不定期連載Season3は、終戦から5年後、1950年(昭25)に長崎で初めて行われたプロ野球の公式戦を紹介します。貴重な資料である当時の長崎日日新聞を、国立国会図書館から提供いただきました。戦災から再出発した港町から、球音が戻ってきた息吹が伝わってきます。全3回。(敬称略)

プロ野球

1953年の卒業アルバムに載った長崎商野球部。当時のグラウンドの様子が分かる。この写真から3年前、長崎で初のプロ野球公式戦が行われた(河津憲一さん提供)

1953年の卒業アルバムに載った長崎商野球部。当時のグラウンドの様子が分かる。この写真から3年前、長崎で初のプロ野球公式戦が行われた(河津憲一さん提供)

長崎商グラウンド!

そのことを知ったとき、私は単純に驚いた。球場ではなく、高校のグラウンドでプロ野球の試合が行われたことがあるとは。それも、オープン戦ではなく、れっきとした公式戦が。

今では、およそ考えられない出来事に、がぜん興味が湧いた。

戦争が終わって5年。1950年6月1日、長崎商業高校(以下、長崎商)でのことだ。西日本パイレーツ(51年に西鉄クリッパースと合併し、西鉄ライオンズ、現西武)と大洋ホエールズ(現DeNA)の5回戦が行われた。

どんな様子だったのだろう。主催した長崎日日新聞の当時の紙面を開くと、試合経過だけでなく、スタンドの模様まで細かく描かれていた。記事を元に再現してみたい。72年前へ、タイムスリップしよう―。

前日降り続いた雨もやみ、からりと晴れた絶好の野球日和になった。

新たに始まったセントラルとパシフィックの両リーグ。セの新生球団、西日本と大洋の一戦を見ようと、午後5時のプレーボールよりもずっと早く、市内油木谷の長崎商グラウンドには午前10時ごろから列ができた。

大洋の初代主将、平山菊二。ホエールズの新規参入に伴い巨人から移籍。「塀際の魔術師」の異名で絶大な人気を得た=1952年

大洋の初代主将、平山菊二。ホエールズの新規参入に伴い巨人から移籍。「塀際の魔術師」の異名で絶大な人気を得た=1952年

入場料は内野指定席250円、外野130円。決して安くはない(※当時の平均賃金は月8000円)が、1万人の人だかりだ。

午後3時過ぎ、まずは大洋が入場してきた。フリー打撃で「塀際の魔術師」こと平山菊二が打席に立つと、甲子園でもおなじみのうぐいす嬢、堀内ケイ子が「平山主将こそピンチに強い名選手です」と紹介した。

それを聞いた平山は「よせよせ」と、小石を投げて恥ずかしがる。だが、軽くバットを振ると、ボールはぐんぐん伸びて、340フィート(約104メートル)の中堅フェンスを越え、400フィート(約122メートル)付近まで到達。これぞ、プロの力。拍手と歓声に沸いた。

子どもの頃、平和台球場で見た情景がプロ野球観戦の原点。大学卒業後は外務省に入り、旧ユーゴスラビアのセルビアやクロアチアの大使館に勤務したが、野球と縁遠い東欧で暮らしたことで、逆に野球熱が再燃。30歳を前に退職し、2006年6月、日刊スポーツ入社。
その夏、斎藤佑樹の早実を担当。いきなり甲子園優勝に立ち会うも、筆力、取材力及ばず優勝原稿を書かせてもらえなかった。それがバネになったわけではないが、2013年楽天日本一の原稿を書けたのは幸せだった。
野球一筋に、横浜、巨人、楽天、ロッテ、西武、アマチュアの担当を歴任。現在は侍ジャパンを担当しており、3月のWBCでは米・マイアミで世界一を見届けた。
好きなプロ野球選手は山本和範(カズ山本)。