遺恨第1号は星野仙一? 「島と星を間違えたんじゃないか」 日刊ドラフト全史(6)

日刊スポーツは1946年(昭21)3月6日に第1号を発刊してから、これまで約2万8000号もの新聞を発行しています。昭和、平成、そして令和と、それぞれの時代を数多くの記事や写真、そして見出しで報じてきました。日刊スポーツプレミアムでは「日刊スポーツ28000号の旅 ~新聞78年分全部読んでみた~」と題し、日刊スポーツが報じてきた名場面を、ベテラン記者の解説とともにリバイバルします。懐かしい時代、できごとを振り返りながら、あらためてスポーツの素晴らしさやスターの魅力を見つけ出していきましょう。

7回に渡って送るドラフト特集の第6回は、「遺恨」ドラフトです。

ドラフトの歴史は「遺恨」の歴史でもある。逆指名制度や自由獲得枠などがあった一時期を除き、指名される選手たちは自らの運命を他者に託すしかない。希望しない球団からの指名、口約束そしてほご、球団間で繰り広げられる過剰な駆け引きなどに振り回された選手は数多い。そこから生じる人間模様は、プロ野球を彩る刺激的なスパイスでもあった。遺恨ドラフト第1号は? 「島と星を間違えたんじゃないか」という逸話で知られる、1968年(昭和43年)の星野仙一にたどりついた。(敬称略)

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田淵強行指名が波紋広げる

1968年(昭43)11月13日付け本紙1面

1968年(昭43)11月13日付け本紙1面

1968年(昭43)11月13日付け本紙2面

1968年(昭43)11月13日付け本紙2面

1968年(昭43)11月13日付け3面。赤枠の中は星野仙一のコメント。ドラフト時は扱いが小さかった。

1968年(昭43)11月13日付け3面。赤枠の中は星野仙一のコメント。ドラフト時は扱いが小さかった。

「田淵 阪神の指名ける」

「大橋 東映指名にあ然」

「広島にホッと 山本浩二」

「島野 いちずの願いがかなう」

11月13日。4年目を迎えたドラフト会議の結果を伝える紙面では、1面から順に上記の見出しが並んだ。明大のエース星野仙一は? というと、巨人に指名された島野修の3面記事下、「指名選手の声」というコーナーで、そのほかの選手と横並びにコメントのみが掲載されていた。

◆星野投手(明大=中日)の話 不満といえば巨人が指名してくれなかったこと。中日はきらいな球団ではないが…。十四日にすべてを任せてあるオヤジ(島岡総監督)と相談したいと思っている。

1968年(昭43)11月13日付け本紙3面に掲載された、星野仙一のコメント

1968年(昭43)11月13日付け本紙3面に掲載された、星野仙一のコメント

はっきり不満を口にするところは星野仙一らしいが、意外にあっさりとした扱いに肩透かしを食らった。

前年度から予備抽選→本抽選→本抽選1番から順次指名となり、東映が1番、広島が2番、阪神が3番、巨人が8番、中日が10番を引いていた。

最大の注目は「巨人でやりたい」と公言していた田淵幸一。巨人も川上哲治監督がご執心で、相思相愛の関係だった。しかし、阪神が強行指名。田淵は会見で「プロに行くなら巨人以外には行きません」とまで言い切った。

この年はドラフト制度が始まって以来の大豊作の年だった。1位指名選手のうち5人が野球殿堂入りし、名球会メンバーも5人輩出している。2位以下にも大島康徳(中日)金田留広(東映)藤原満(南海)ら、そうそうたる顔ぶれが並んでいた。

いい選手がいっぱいいるのなら、すみ分けできても良さそうなものだが、田淵以外にもいの一番で東映に指名された大橋穣、南海指名の富田勝が入団に難色を示し、星野はわだかまりを隠そうともしなかった。西鉄指名の東尾修も大学進学をほのめかし、入団交渉は難航した。

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1988年入社。プロ野球を中心に取材し、東京時代の日本ハム、最後の横浜大洋(現DeNA)、長嶋巨人を担当。今年4月、20年ぶりに現場記者に戻り、野球に限らず幅広く取材中。