【佐藤駿〈中〉】〝杜の都〟で育った小学生時代 13年前の震災の記憶と大好きなスケート

日刊スポーツ・プレミアムでは毎週月曜に「氷現者」と題し、フィギュアスケートに関わる人物のルーツや思いに迫っています。

シリーズ第26弾は、2月の4大陸選手権で銀メダルを獲得した佐藤駿(20=エームサービス/明治大)。2月6日で二十歳となり、シニア5季目の来季に向けた充電期間に入っています。

全3回でお届けする連載の中編は、仙台市で過ごした日々、ちょうど13年前になる東日本大震災、全日本ノービス選手権4連覇と突っ走った小学生時代を振り返ります。(敬称略)

フィギュア

小学1年生のころ、氷上を滑る佐藤駿(本人提供)

小学1年生のころ、氷上を滑る佐藤駿(本人提供)

豊かな自然、ピアノ…「地元の中で生きていた」 

杜(もり)の都、仙台。

宮城県の県庁所在地である都市は、長年にわたって、そう呼ばれてきた。

町全体が緑に包まれる姿を、人々は長い年月をかけながら大切にしてきた。

2004年2月6日に生まれた佐藤の周りにも、いつも緑があった。

1歳のころ、リンゴを手に持つ佐藤駿(本人提供)

1歳のころ、リンゴを手に持つ佐藤駿(本人提供)

母校となる仙台市立高森小学校は、四季を感じる「高森自然公園」の近くに位置した。

「友達とその公園に『行こうぜ!』と遊びにいったり…。『高森』というぐらいなので、本当に自然が豊かな地域でした」

登校時も近道をする際には“森”を経由した。小学生が遊びで使う乗り物は自転車。池や雑木林もある公園は日常にとけ込んでいた。

「小さい時は電車とかもあまり乗らなかったですし、基本はチャリで行ける場所。東京に行くようなことももちろんないですし、地元の中で生きていました」

1人っ子の佐藤は、両親の愛情に包まれながら、伸び伸びと育った。4歳のころから打ち込んだのはピアノ。母が好きだったこともあり、楽しみながら弾いていた。

小学1年生のころ、ピアノの前で犬を抱きながら笑顔を見せる佐藤駿(本人提供)

小学1年生のころ、ピアノの前で犬を抱きながら笑顔を見せる佐藤駿(本人提供)

「5年ぐらい習っていました。全日本ノービスに出るようになって、スケートに集中する時期に離れたことで、その流れになってしまいましたが…。ある程度は弾けるようになっていて、スケートに生きていることもあるはずです(笑い)。クラシックの曲は知っているので、少しつながりますね。楽譜も読めますし、たまに弾きたくなったりもしますが、弾こうと思っても、忘れていて弾く曲がないですよね(笑い)」

スケートとの出合いは、5歳の誕生日だった。

5歳の誕生日…遊びに出かけた先には雪ではなく、氷があった

2009年2月。佐藤の誕生日にかけて日本列島を寒冷前線が通過し、北日本では吹雪も見られていた。

「本当はスキーかソリに行こうとしていたらしいです。でも、天候が悪くて『ちょっと厳しいね』となって、道中にあったスケートリンクで遊ぶことになりました」

初めて氷に立ったのは「ベルサンピアみやぎ泉」。滑ることが楽しく、2週間ほど夢中になった。そこで今や全国的に有名となった「アイスリンク仙台」で、スケートクラブに入れることを知った。実際に足を運び、クラブに入る前段階のスケート教室に参加した。

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大学までラグビー部に所属。2013年10月に日刊スポーツ大阪本社へ入社。
プロ野球の阪神を2シーズン担当し、2015年11月から西日本の五輪競技やラグビーを担当。
2018年平昌冬季五輪(フィギュアスケートとショートトラック)、19年ラグビーW杯日本大会、21年東京五輪(マラソンなど札幌開催競技)を取材。
21年11月に東京本社へ異動し、フィギュアスケート、ラグビー、卓球などを担当。22年北京冬季五輪もフィギュアスケートやショートトラックを取材。
大学時代と変わらず身長は185センチ、体重は90キロ台後半を維持。体形は激変したが、体脂肪率は計らないスタンス。