桜のジャージーを胸に戦う「外国出身選手の物語」の第5回は、長髪の王子様ことロックのビンピー・ファンデルバルト(30=NTTドコモ)。欧州の名門クラブからのオファーを断って13年に来日し、南アフリカ出身として初の日本代表になった。4人兄弟の末っ子で、童顔であることから家族からの愛称は「ベイビー」。女手一つで育ててくれた母リナさん(49)と、日本のために「ジャパンを世界8強に導きたい」と力を込めた。

18年11月、ニュージーランド戦での日本代表ファンデルバルト
18年11月、ニュージーランド戦での日本代表ファンデルバルト

初めて訪れた日本は暑かった。母国南アフリカからドバイ経由で丸1日がかりで到着。エコノミークラスの座席でファンデルバルトは夢を描いていた。ワイシャツにネクタイの正装だったから、空港では汗が止まらなかった。真夏の日差しがまぶしい13年8月6日。フランスのブリーヴ、スコットランドのエディンバラからの誘いを断って来日。その時から日本代表への思いがあった。

「日本のプレーが好きで、07年と11年のワールドカップ(W杯)を見ていたんだ。あの時のフランス戦(11年)。日本はいいタックルをしていたよね。なんで日本を選んだかというと、今は(強豪国と)力の差はない。(17年に)フランスと日本がやった時に、引き分けだったでしょ」

8年前の11年9月10日。W杯ニュージーランド大会の初戦で日本はフランスを本気にさせた。後半17分にPGが決まり21-25の4点差。残り10分で3連続トライを浴び21-47で屈したが、その試合をテレビで見ていた。当時22歳で、南アの強豪ストーマーズに月収4万円で在籍。弱者が果敢に強者に襲いかかる姿に胸を打たれ、イタリアのクラブを経て来日したのは、その2年後のことだった。

そして、15年9月19日のW杯イングランド大会。日本が34-32で南アフリカから大金星を挙げた試合も、大阪の自宅で見ている。

「日本はレベル的にどうかなと思ったけど、すごい試合だった。親戚が日本に来て、みんなで見ていたから南アを応援していたよ」

小学6年で170センチ、70キロあり、レスリングで全国大会8位になった。「南アの人はみんなデカイけど、その中でも僕はめちゃめちゃデカかった。10歳の時に12歳の試合に出ていた」。体の大きさを生かした突破力だけでなく、子供の頃はSOをこなし、FWでも日本代表の定位置であるロックと、フランカー、NO8もできる万能選手。高校では2年連続でU-18南アフリカ代表に選出された。

「スプリングボクス(南ア代表)のユニホームは高校生の頃に着たからね。日本代表を選んだ後悔は全くない。(父と)離婚をしてから、働きながら4人の子供を育ててくれた母がW杯を見に来てくれる。(1次リーグの)ロシア、サモアには勝てる。スコットランドに追いつき、超えられれば、トップ8も大丈夫」

18年6月23日、ジョージア戦後に母リナさん(前列左)と写真撮影したファンデルバルト
18年6月23日、ジョージア戦後に母リナさん(前列左)と写真撮影したファンデルバルト

故郷に帰れば、姉が東京ドーム約250個分の農場を経営する。日本が好きになり、そこで和牛を飼育するようになった。W杯開幕前の9月6日に、日本代表は南アフリカと対戦する。

「南ア代表には友達がいるけど(母国という)そんな感情はない。勝ちたい」

持てる力を、日本にささぐ覚悟がある。【益子浩一】

◆ビンピー・ファンデルバルト 1989年1月6日、南アフリカ・ブリッツ生まれ。7歳からラグビーを始め、ネルスプロイト高卒業後にストーマーズU-19入り。イタリアのサングレゴリオに半年間在籍し、南アのサザン・キングズ、ブルズを経て、13年からNTTドコモ入り。17年11月に日本代表入りし、サンウルブズのメンバー入りも果たした。趣味は狩り。188センチ、106キロ。

◆代表でのプレー資格 現在の条件は(1)当該国・地域で出生している(2)両親、祖父母の1人が当該国・地域で生まれている(3)36カ月継続か通算10年にわたり当該国・地域に居住している。継続居住期間については20年12月31日以降、36カ月から60カ月に延長される。