各世代の日本代表中心選手がワールドカップ(W杯)を振り返るシリーズ「俺のW杯」。第4回は99、03年大会に名を連ね、後に日本人2人目の世界殿堂入りを果たすWTB大畑大介氏(43=神戸製鋼)です。テレビ出演も数多くこなすラグビー界屈指のスターは、ファン層の拡大を使命にW杯日本大会へと向かいます。

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2007年8月25日、イタリアで行われたポルトガル戦。自身3度目の晴れ舞台、W杯フランス大会直前の練習試合で大畑の左足が悲鳴を上げた。アキレス腱(けん)断裂-。目標が一瞬にして消え、関西空港へ帰国したのが29日。その場でエースは「桜のジャージーをもう1回着られるようにしたい」と口にし「ハートを熱くしてもらえるラグビーをしてほしい」と欧州の仲間へエールを送った。

そもそも、空港で進退を表明する気などなかった。

大畑 でも、あまりにも出迎えてくださった方々がお葬式みたいな雰囲気で…。チームメートにも伝えていなかった。関空の時はその様子を見ながら「後日言ってもニュースにならない」と考えた。当の本人が「ついつい言ってもうた」と言う方が、面白いわけじゃないですか。W杯前だし、とにかくラグビーに目を向けてもらいたい思いだった。

23歳で初出場した99年W杯では、開催国のウェールズ戦で鮮烈なトライ。「隣の人間にすら、寄っていかないと声が届かない大歓声。『開催国、W杯ってすげえ』と思った」。選手として03年を目指す思いと同時に、別の感情も強まった。

大畑 僕はラグビーの人気と衰退のはざまの世代。子どもの頃に松尾雄治さんの話をしても、周りはよく分かっていなかった。阪神の掛布(雅之)さん、バースさんはみんな分かる。自分たちの村のトップを周りが知らないのが悲しかった。だから、他競技の子どもにも、ラグビーを知ってもらいたいと思ったんです。

選手として旬を迎えていた03年W杯では、オーストラリアのタウンズビルが代表の拠点だった。試合の印象と同等に、温かい思いが大畑の胸に刻まれている。

大畑 縁もゆかりもない小さな街の人たちが人種、言葉を超えて、本気で応援してくれた。それこそ「遠くの親戚より、近くの他人の方が応援してくれる」という感じ。これがW杯だと思った。02年のサッカーW杯でカメルーンを応援する中津江村(現大分県日田市)みたいな雰囲気でした。

最終的にはW杯を控えた11年1月に現役引退。ボロボロの体で戦っていたのは「結局は『W杯で勝たないと』というところに行き着いた。そこで結果を残さないと、人は目を向けてくれない」という理由だった。4年後、世界を驚かせた15年W杯で日本ラグビー界に追い風が吹いた。では、引退しても己にできることは何か。大畑は唯一無二といえる使命を自覚している。

大畑 ラグビーを知らない人に、W杯は「ラグビー村のお祭り」と思ってもらいたい。「近所で何かやっているな」というのが「ほな、ちょっと見てみようか」となれば、面白みも変わってくる。僕はそれを伝えていこうと思っています。

その目線は低くて、力強い。(敬称略)【松本航】

◆大畑大介(おおはた・だいすけ)1975年(昭50)11月11日、大阪市生まれ。東海大仰星、京産大を経て98年神戸製鋼入り。99、03年のW杯に出場し、日本代表58キャップ。16年に日本人2人目となるワールドラグビー殿堂入り。11年引退。19年W杯日本大会アンバサダーなどを務める。

15年9月、ラグビーW杯イングランド大会の開会セレモニーに登場した元日本代表の大畑氏(撮影・Piko)
15年9月、ラグビーW杯イングランド大会の開会セレモニーに登場した元日本代表の大畑氏(撮影・Piko)