日本とトンガの関係をひもとくと、「そろばん」にたどり着く。そろばん指導者だった大東大ラグビー部の故中野敏雄部長が、そろばんをきっかけに両国を結びつけた。ノフォムリ・タウモエフォラウ氏とホポイ・タイネオ氏は「そろばん留学生」として来日し、大東大ラグビー部へ入部。そろばんと2人の活躍があったからこそ、今の日本とトンガの関係がある。

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1974年度に関東リーグ戦を優勝した大東大ラグビー部が、ご褒美にニュージーランドへ遠征した1976年。同部の中野部長は、1人でトンガへ渡った。その機中で偶然にも隣り合わせになったトンガの文部次官ナ・フェフェイ氏から、国王トゥポウ4世がそろばんに興味を持っていることを聞かされた。自分がそろばん指導者であることを明かすと、そのまま国王との面会が決定。トンガの小学生へのそろばん指導に苦労している話を聞かされ、トンガ珠算教育協会名誉副会長を委嘱された。日本とトンガのそろばん交流が始まった瞬間だった。

それから数年後「将来、トンガでそろばんを教えることができる先生が欲しい」という国王のつぶやきに中野部長が手を挙げた。2人の留学生を、大東大が受け入れて教育することが決まった。その代わりに中野部長は「ラグビーができる子が欲しい」と条件を提示。最初の留学生は、トンガ代表15キャップを持っていたノフォムリと、ラグビーは未経験だったが秀才のホポイだった。同時に国王から「5年たったら2人はトンガに戻す」との条件が付いた。あくまで学業のための留学だった。

2人はまず、日本語を習得するために留学生別科で学び、翌81年から大東大1年生として過ごすことになっていた。だが実際は留学生別科の時からラグビー部の練習に参加。平日は埼玉・東松山市のグラウンドで汗を流し、週末は中野部長が指導する東京・練馬にあるそろばん塾で子どもたちに交じって勉強した。

学業優先の留学とはいえ、ラグビー部でノフォムリはすぐに台頭した。大型WTBはすぐにチームのエースとなり、ラグビー未経験のホポイも徐々にチームの柱になった。代表スタッフの目にとまり、2人はトンガ出身選手初の日本代表に選出された。

当時の状況についてノフォムリは「トンガから離れたかった。チャンスを探しに行きたかった」と留学に前向きだったという。トンガ代表になっても「名誉だけ。お金にならない。ファミリーを助けたかった」と経済的理由も大きかった。5年で母国に帰国する約束だったが、自らの意思で日本に残った。そして1987年の第1回W杯に出場。記念すべき日本代表のW杯初トライは、初戦米国戦でのノフォムリだった。

早大、明大、慶大が全盛期だった80年代に、そろばんをきっかけにトンガからの留学生を受け入れた大東大。のちに当時の鏡保幸監督が賭けに出たそろばん留学2期生で、大学ラグビー界に旋風を巻き起こすことになる。【佐々木隆史】