1972年(昭47)センバツに出場した岩手・専大北上のエース右腕畠山司(現在59)は、初戦の花園(京都)戦で15奪三振完封し、県勢春初白星を飾った。同じく専大北上に進んだ長男雅徳は97、98年にエースとして、次男で現ヤクルトの和洋は内野手として98年、00年に甲子園の土を踏んだ。

 専大北上に入学する時は「遊び半分」の気持ちで、甲子園なんて夢にも思わなかった。168センチ、60キロの小柄な体。当時のチームには投手が1人しかおらず1年秋からエースになった。秋の東北大会で準優勝し、同校初出場をほぼ手中におさめても実感が湧かない。だが、いざ甲子園に入ると自然と体が熱くなった。

 畠山 大きな大会になると負けず嫌いだから自然と熱くなる。恥ずかしい程度の変化球しか持ってないから、カーブを見せ球にするぐらいで、ほぼストレートだけ投げました。ただ、自分で言うのもなんですが、捕手が構えたところに投げられた。インコースもほとんど投げず、アウトコース低めだけ狙いました。

72年3月、花園戦で力投する専大北上の畠山司
72年3月、花園戦で力投する専大北上の畠山司

 初戦花園戦で初回から7連続三振。8回1死満塁、9回無死二、三塁のピンチを背負ったが、我慢して15三振完封。以来、09年の花巻東・菊池雄星まで37年間、岩手県の投手で2ケタ三振を取る者は出てこなかった。続く日大三(東京)戦では、得意の外角低めを簡単に捉えられ、1-4で敗れた。

 畠山 2年の秋に右肩を壊したんです。肘が上がらずフォームが小さくなる。3年夏は全然だめでした。専大に進み、周りに負けたくないものだから春先から全力で投げて、また肩を壊し…。ゆっくり治せばいい、とも大学から言われたんですが1年で大学をやめました。

 97年夏。長男雅徳が、岩手県決勝進出をかけ水沢相手に投げているその時、運送業の仕事で、山形・酒田市へとトラックを走らせていた。

 畠山 気が気でなくて。ラジオが聞けるところに車を止めて(中継を)聞きました。決勝の日も八戸で仕事があったけど、午前に往復して、決勝の時間には間に合いました。やっぱり息子の時の方がうれしい。その日の祝賀会では、二日酔いになるほど飲みました。

 翌年、3年生になったエース雅徳と、1年生で5番三塁の和洋の息子2人がそろって甲子園出場を決めた。初戦如水館(広島)戦は7回6-6で雨のため中断。甲子園史上83年ぶりの降雨コールドによる再試合となった。畠山家にとってはもう1つ“事件”が。父良夫さんが初戦の後、別の学校の団体に紛れ、一時行方不明に。捜索願を出したが、翌日ホテルに「ぴょこっと」現れたという。そんな騒動を経て迎えた再試合。息子2人は力を出し切れず5-10で敗れた。

 畠山 試合前にブルペンを見たら、(雅徳の)投げ方がなんかおかしいんです。右肘を痛めてたんですね。和洋も初回に頭部死球を受けて。でも、甲子園は何回行ってもいいところでした。選手じゃなくても。

 2年連続で夏の甲子園で息子の応援をするのは幸せだった。雅徳は高校卒業後、地元で就職。和洋は00年ドラフト5位でヤクルトへ。「電話すると、いつもジャラジャラとパチンコの音がしていたけど、この2、3年は聞こえなくなった」と笑いながら成長を喜ぶ。

 畠山 シーズン中は毎試合テレビを見ながら晩酌です。秋田、仙台、神宮と、年に数回家族で試合を見に行く。試合の後に顔を合わせてごはんを食べるのが何より楽しみなんです。(敬称略)【高場泉穂】