プロ野球の南海(現ソフトバンク)や巨人などで活躍した富田勝(とみた・まさる)氏が26日午後5時32分、肺がんのため、大阪市内の病院で死去した。68歳だった。通夜は28日午後6時、葬儀・告別式は29日午後1時から大阪市阿倍野区阿倍野筋4の19の115、大阪市立やすらぎ天空館で。喪主は長男大介(だいすけ)氏が務める。

 富田氏は大阪府出身。法大では山本浩二氏、田淵幸一氏(ともに野球評論家)らと「法政三羽がらす」と呼ばれた。リーグ屈指の内野手として知られ、在学中に3度の東京6大学リーグ優勝を経験。そんなエリートも、プロ入り後は南海の新たなチームづくりによる逆風を味わった。監督兼捕手だった野村克也氏(野球評論家)が「考える野球」を打ち出し、投手陣の補強のために長嶋茂雄氏(巨人終身名誉監督)の後釜を求める巨人にトレードで移籍。その巨人はドジャース戦法を駆使してのV9時代終盤で、選手はきら星のごとくいた。期待の裏側で外様の悲哀を味わった。

 富田氏が巨人から「最大の殊勲」と言われたのは、9連覇に挑んだ73年10月11日の首位阪神との一戦。負ければ優勝が絶望となる巨人は2回までに7失点。沈んだ空気の中で、4回に江夏豊氏(野球評論家)から3点本塁打を放つと、打線が奮起して引き分けに持ち込んだ。そして最終戦の阪神に勝って9連覇を達成した。「あの富田の一発がなければ9連覇はなかった」と当時のV9選手たちは言う。

 近年は体調を崩し、入退院を繰り返していた。数日前に田淵氏や山本氏、法大、南海の後輩の堀井和人氏(元オリックススカウト部長)らが病院を訪問。懐かしい元チームメートに別れを告げて旅だった。

 ◆富田勝(とみた・まさる)1946年(昭21)10月11日、大阪府生まれ。興国-法大を経て68年ドラフト1位で南海入団。2年目の70年にリーグ最多の95得点。巨人時代は73年の終盤、長嶋が右手薬指を骨折したため、古巣南海との日本シリーズで全5試合に三塁手で出場。76年には張本とのトレードで高橋一と日本ハム移籍。中日時代の81年にプロ野球史上2人目の全球団本塁打を記録した。オールスター出場2回。現役時代は177センチ、75キロ。右投げ右打ち。