プロレスリング・ノアは8日、元プロレスラー、レフェリーで、同社の監査役兼GHCタイトル管理委員長のジョー樋口(ひぐち)さん(本名・樋口寛治=ひぐち・かんじ)が同日午前5時38分、肺腺がんのため東京都内の病院で死去したことを発表した。81歳だった。神奈川県出身。レスラー引退後には、故ジャイアント馬場さんらとともに全日本プロレスの設立に尽力すると同時に、レフェリーとしても数々の名勝負を裁いた。通夜、告別式は近親者のみで執り行う。

 昭和プロレスの名脇役が逝った。関係者によると樋口さんは、3~4カ月ほど前から体調不良を訴えていたという。9月上旬から都内の病院に入院し、治療を受けていたが、8日早朝に息を引き取った。ノアによると、公の場に姿を現したのは、8月28日の東京・後楽園大会が最後だった。

 ノアの永源遙相談役は、樋口さんが亡くなる前日の7日に病室を見舞った。会話はできなかったが、話し掛けると何か言いたげに口を動かしていたという。「昨日会ったばかりなのに今日、亡くなるとは…。兄貴みたいな存在だった」と絶句した。

 力道山ブームを経て、全盛期に至る日本プロレス界で、樋口さんは陰の功労者だった。54年に柔道からプロレスの道へ。選手としては大成せず引退したが、馬場さんらと全日本の旗揚げに参加すると、レフェリーとして人気を博した。リング上を跳びはねる機敏なレフェリングは、年とともに円熟味を増し、確実なカウントや毅然(きぜん)とした試合裁きで、ファンを魅了した。

 馬場さんの名勝負の大半を、樋口さんが裁いたといわれた。一番弟子だった全日本の和田京平レフェリーは「ジョーさんなくして馬場さんなし。それほど存在は大きかった」と振り返った。米NWAの公式レフェリーにも認められ、日本人として初めてNWAヘビー級タイトルマッチ、ジャック・ブリスコ対ドリー・ファンクJRを裁くなど、国内外のプロレス界にも足跡を残した。一方で、数々の試合を重ね、マットをたたく右手が左手の倍近く厚くなった。ファンからのサインも「手が厚くてペンをうまく握れないので書けないんです」と断ることがあったという。

 第2次大戦後、進駐軍で米国軍人らに柔道を教えることで英語を身に付けた。日本プロレス時代には、力道山から直々に世話役を命じられ、「こんなに名誉なことはない」と、世話焼きにさらに熱心になった。樋口さんの人柄に感動したミル・マスカラスら来日レスラーの間では、樋口さんに感謝の手紙を書くことが慣習となり、それをまとめた冊子が選手の間でやりとりされるほどだった。

 00年のノア旗揚げに参加後は、GHC管理委員長として団体の象徴的な存在になった。体調不良のため、9月以降は永源相談役が委員長を代行。樋口さんが調印式に姿を見せないと、ファンから「ジョーさんはどうしたんですか?」と事務所に電話がかかっていたという。ノアの田上明社長は「これからも厳しい目で天国からノアを見守って下さい」とコメント。ラッシャー木村さん、山本小鉄さんらに続き、昭和を彩ったプロレスの火がまた1つ、消えた。