ボルツァーノの風景です(数年前の夏に撮影。いまでも変わっていません)
ボルツァーノの風景です(数年前の夏に撮影。いまでも変わっていません)

ボルツァーノからフロジノーネ

 熊本の地震、鳥取の地震。周囲のイタリア人から「家族は大丈夫?」と聞かれる。イタリアから見れば、日本はひとつ。「大丈夫です。東京からはとても離れているから」と答えるが、彼らには距離感はピンとこない。

 イタリアの国土面積は日本の約80%。大まかに言うなれば、日本から東北地方を取っちゃったくらい。北はオーストリアやスイスと国境を接していて、そこからイタリアの国土の形、よくブーツになぞられるけど、つま先のカラブリア州までは約1000キロ。日本の本州は約1200キロと言われるから、地続きではほぼ同等だ。

 先日、久々に北はオーストリアが目前のボルツァーノから、南はローマ以南、100キロほどにあるフロジノーネという町までを走破した。オヤジ4人のビジネスツアー。

 ボルツァーノはトレンティーノ・アルト・アディジェ州の都市で、またの名をボーツェンという。イタリアのドイツ語圏だ。南チロル地方を象徴するような鋭角な屋根の可愛い木造建築。バルコニーには色鮮やかな花たち。北緯45度は日本だと利尻礼文サロベツ国立公園にあたる。

バス停の表示。ホッペ? 240の数字の下にはドイツ語とイタリア語の両方で記されています
バス停の表示。ホッペ? 240の数字の下にはドイツ語とイタリア語の両方で記されています

ヴェローナ→モデナ→ボローニャ、フィレンツェ、ローマ

 以前、クロアチア国境に住む老婦人の話を書いたけど、ここもまた戦争によって翻弄された町だ。住民のほとんどはドイツ系でヒットラーとムッソリーニよる話し合いによってイタリア共和国に組み込まれた。よって学校ではイタリア語を学ぶものの、家族の間ではドイツ語で話す。訪問した家庭も僕には独特な発音の、いかにも「学校で習いました」というイタリア語だけど、親子ではドイツ語で話していた。顔もゲルマン系。もっとも世代もどんどん若返り、今の若者たちはドイツ語を話さぬドイツ系イタリア人になっているようだ。

 10月初めで外の気温は3度だった。北イタリアらしい、今にも雨しずくがこぼれ落ちてきそうな曇天。しかし、もてなしは温かかった。帰りがけに彼らの頬のように赤い姫林檎を一袋頂戴する。庭で取れた林檎なのだそう。

 ボルツァーノから真っ直ぐ高速を南下。「ロメオとジュリエット」の舞台となったヴェローナを抜け、フェラーリ、ランボルギーニ、ドゥカッティのお膝元であるモデナを通り、ボローニャ、フィレンツェ。そして、ローマ。ラッツィオ州に入った。

フロジノーネ。目に入るものは、すべてオリーブの木
フロジノーネ。目に入るものは、すべてオリーブの木

2日の間で寒暖差24度

 僕は夢の中だったけど、運転してくれた人によれば「雷光が真横に走るのを初めて見た」というほどの悪天候。ボルツァーノからフロジノーネまで、南北に約700キロ。ボルツァーノではダウンジャケットを着ていたけど、フロジノーネは人々はまだ半袖姿だった。

 目に入るものは、すべてオリーブの木。一面オリーブ畑、というわけでもなく、各家、各地区、それぞれにオリーブの木々が植えられた風景。

 イタリア南北、2日の間で寒暖差は24度もあった。ちなみに、フロジノーネの位置する北緯41度は日本では青森…。地中海性気候のなんと温暖なことよ。

 南イタリアの入り口、フロジノーネ。 セリエAウォッチャーならば、一昨年、2014-2015シーズンにセリエAに初昇格したフロジノーネ・カルチョを覚えているだろうか?

 温暖な気候のせいか、皆、開放的で、よく喋る。声が大きい。人柄の裏表をまったく感じさせない。

 しかし、こんな田舎町、日本になんか縁はないだろうと思っていたら、BARのシニョーラが「マコトは知ってる? よく日本のツアー客を連れて来ていたわ」だって。

南らしい黄色いライトに照らされたロマンティックな夜の街角
南らしい黄色いライトに照らされたロマンティックな夜の街角

所変われば…イタリアもひとつではない

 聞けば近郊のフュッジという町には、イタリア屈指の温泉があって、ローマ観光のオプションとして訪れる人が多いのだそうだ。また、フロジノーネには日本のオムロンの工場もあって、フロジノーネの人々にとっては日本人はけして珍しい存在ではないのだとか。あらま。びっくり。

 おじゃました家でいただいた胡桃、ハシバミ。どちらも美味しゅうございました。もちろん庭で取れたもの。ボルツァーノでは姫林檎、フロジノーネは胡桃。地産地消の食べ物も変わる。

 日本がひとつではないように、イタリアもひとつではない。

 来月もまた北から南へイタリア縦断の旅です。(イタリア・ミラノ在住・新津隆夫。写真も)