山下泰裕氏と幾多の名勝負を繰り広げ、昭和の柔道界を彩った斉藤仁氏が力尽きた。

 関係者によると一昨年終わりごろに糖尿病や胃を患い、昨年末に病状が悪化。懸命の闘病生活も実らず、20日に亡くなった。

 1984年ロサンゼルス五輪から男子95キロ超級を2連覇した斉藤氏だが、柔道家としてのハイライトは88年ソウル五輪だった。日本男子は6階級で敗れ、史上初めて優勝者なしの大ピンチに陥った。最終日の95キロ超級は斉藤氏。「魂の全てをぶつけた」と鬼気迫る形相で畳に向かい、ひたすら前に出る柔道で頂点に立った。お家芸を救った。

 山下氏の壁はついに破れなかったが、88年には全日本選手権を制覇し、五輪と世界選手権との3冠を達成。引退後は母校の国士舘大監督として鈴木桂治氏らを指導し、男子日本代表監督となった2004年アテネ五輪ではその鈴木氏を、08年北京五輪で石井慧氏を最重量級覇者へと導いた。

 日本男子が初めて金メダルゼロと惨敗した12年ロンドン五輪後、全日本柔道連盟の強化委員長に就任。再建に乗り出した直後の13年1月に、女子日本代表選手に対する暴力指導問題が発覚した。斉藤氏は選手や所属先との対話を重視し、現場へ頻繁に足を運んだ。昨年11月の講道館杯全日本体重別選手権では「やることが山積みだから、やせちゃったよ」と笑っていたが再び体調が悪化。これが最後の表舞台だった。