日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。

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また会っておかなければと思いながら、それがかなわなかった。阪神球団初の日本一を遂げた1985年(昭60)、広報部長だった室山皓之助(むろやま・こうのすけ)と最後に会ったのは、昨年3月25日のことだ。

それは吉田義男のお別れ会が執り行われた日で、長い弔問列に見つけた本人と目が合って、会釈をしただけで失礼していた。その室山が7月22日に誤嚥(ごえん)性肺炎で逝去した。積年の思いがある1人だった。

日本一と最下位の天国と地獄を味わった吉田阪神のメンバーで、監督、選手、球団関係者らが集った「天地会」という名の親睦会があった。室山は長きにわたって、その世話役を務めていた。

岡山・倉敷工で春のセンバツ出場し、法大では有名な強打の外野手だった。大学4年の60年春季リーグで首位打者に輝き、4度の優勝を経験。その年の全日本大学野球選手権大会で、法大初の大学日本一に貢献している。

将来を期待されて阪神入りしたが、アキレス鍵断裂でユニホームを脱いだ。実働5年。引退後の再就職を約束されていたのは、室山が有望選手だったことを証明した。グループ内のホテル阪神に勤務する。

その後、監督に就く吉田に請われて阪神フロント入りした。球界を代表した名選手の吉田だが、なじみのない人には用心深く、マスコミ嫌いだった。一見こわもての室山は“側近”として吉田に寄り添い、監督を守った。

日刊スポーツ客員評論家に吉田を招き入れることが決まったとき。さまざまな根回しの末に本人との交渉がまとまった後で、室山から言われたドスの利いた短い一言は忘れることができない。

室山には「あんたが最後まで吉田についてくれるんやな」と突きつけられた。ちゃんとした条件でもなかったが、吉田を口説き落として「はい」としか言えない自分がいた。拙者はその“男の約束”をまさに死ぬまで守ったつもりだ。

なにせ吉田は阪神にさまざまな形で影響力をもったから、グラウンドを離れても、業界を問わず人が寄った。そこで要人とのセッティングからスキャンダル対応まで、黒衣とした支えた室山とは関係してきた。

室山から譲り受けた直筆のメモには、阪神の栄光と挫折がちりばめられている。次期監督に有力視された村山実から急展開してその座に就いた吉田のコーチ人事から、チーム編成、日航機事件に巻き込まれたことなど…。

そこにはコーチ契約を結んだとき、割り増しを要求してきたコーチの名前もあるから、室山の几帳面さがうかがえたものだ。また当時球団社長・中野肇の存在について「試合後はどんな勝敗にかかわらず少し離れた所から監督にご苦労様と目で会釈された」と書かれている。

中野は85年8月12日に起きた日航ジャンボ機墜落事故で犠牲になったが、室山は「約15年間、8月12日には吉田義男として供花を持ちおまいりした」としている。また大コンバートを「成功」と書き込み、吉田と選手との関係を「細かい規制より、大きな範囲(輪)で見守った」とつづった。

室山はそのメモの冒頭に自ら「日本チャンピオンを思い返す」とタイトルをつけている。在りし日の室山を悼みながら、トップリーダーを支える腹心の存在と役割を改めて考える契機になった。(敬称略)