力道山のルーツはハリウッドにあった-。日本のプロレスの父、力道山が亡くなって今年の12月15日で没56年目を迎える。この機にあわせ、元週刊プロレス、週刊ゴング外国人レスラー番のスポーツライター、トシ倉森さん(65)が秘蔵写真とともに、プロレスラー力道山誕生の秘話を語ってくれた。【取材・構成=高場泉穂】

左から力道山、ハワード・キール、マイク・マズルキ、ハロルド坂田、アンドレ・アドレー。映画「キスメット」(1955)撮影中の主役キール、準主演マズルキを米ロサンゼルスのスタジオに訪ねた時の写真(トシ倉森氏提供)
左から力道山、ハワード・キール、マイク・マズルキ、ハロルド坂田、アンドレ・アドレー。映画「キスメット」(1955)撮影中の主役キール、準主演マズルキを米ロサンゼルスのスタジオに訪ねた時の写真(トシ倉森氏提供)

「これを見て下さい」。倉森氏が出した写真には、うれしそうに笑う力道山と4人の男性が写る。撮影時期は力道山が米国巡業をした1954年頃。米ロサンゼルスのスタジオで映画「キスメット」の撮影を見学した際の一コマである。

力道山の肩に手を置くのは大スターで同映画主役のハワード・キール、右に続くのは元レスラーのマイク・マズルキ、後に「007」でブレークするハロルド坂田。そして一番右がボクサー、レスラー、俳優として活躍したアンドレ・アドレー。この男がプロレスラー力道山の誕生に深く関わっているという。「この話を広く伝えるのが自分の務めだと思っています」。倉森氏はアドレーから直接伝え聞いた話を語り始めた。

1936年、チャーリー・チャプリンの専属スタジオでチャプリン専属カメラマンが撮影したアンドレ・アドレー。アドレーはチャプリンお気に入りの選手だった(トシ倉森氏提供)
1936年、チャーリー・チャプリンの専属スタジオでチャプリン専属カメラマンが撮影したアンドレ・アドレー。アドレーはチャプリンお気に入りの選手だった(トシ倉森氏提供)

1981年(昭56)、週刊ファイトの特派員として米国にいた27歳の倉森氏はハリウッドで毎週水曜に開かれているレスラー、ボクサー、ショービジネス関係者の親睦会「カリフラワー・アレイ・クラブ」にある日、アポなしで飛び込んだ。「昔のハリウッド映画のような華やかな雰囲気でした」。その中で出会い、歓迎してくれたのがアドレー。そこで、かつて交流した力道山の話を倉森氏に語ってくれたという。

話は1951年(昭26)にさかのぼる。場所は東京・芝にあった「シュライナーズ・クラブ」(旧海軍水公社)。進駐軍のために米国から来日したアドレーらが仮設リングで練習する中、いきなり屈強な男が現れた。前年まで国技・大相撲の関脇をはっていた力道山だった。当時は元支援者が経営する明治建設の資材部長を務めていた。倉森氏は「その前に立川基地で建設を請け負ったことからつながりができたのでは」と接点を推測する。

アドレーらの練習風景を見ていた力道山は、その場で挑戦を表明。だが、殺気だったその姿に誰も相手をしたがらない。そこで渋々受けたのが45歳で最年長のアドレーだった。「実はアドレーには相撲の予備知識があったんです」。アジア人初のハリウッドスターで友人の早川雪洲から、相撲が立ち技のみでグラウンドの攻防がないスポーツであることを聞いていた。

始まってすぐ膠着(こうちゃく)状態が続いたが、アドレーは力道山の不用意な動きを見逃さなかった。左足を前に出した瞬間に、タックルに入ってマットに倒すと、得意の裸絞めでKO。瞬殺だった。「アドレーは『よほど悔しかったのだろう。涙を流していたよ』と話していました」。そこから力道山は毎日その場を訪ね、プロレスラーとしての練習を開始した。「体力、センス、さらにスター性があり、のみ込みも相当早かったそうです」。わずか約1カ月後の10月28日、両国メモリアルホールで力道山はデビュー戦を果たした。(続く)

トシ倉森氏
トシ倉森氏

◆トシ倉森 1954年(昭29)12月2日生まれ、長崎市出身。京都産業大学外国語学部英米語学科卒業後、79年に渡米し週刊ファイトの特派員として全米マット界を取材。81年にカリフラワー・アレイ・クラブの正会員となる。83年に帰国後、ベースボール・マガジン社に入社し、「週刊プロレス」の創刊号から主に外国人レスラーを担当。「相撲」編集部を経て、日本スポーツ出版社に入社し、「週刊ゴング」編集部勤務。退社後、SWSの設立メンバーとして広報担当。現在はスポーツライター。著書「これがプロレスのルーツだ!カリフラワー・レスラーの誇り」(電子書籍)、共著として上田馬之助自伝「金狼の遺言」。