プレーバック日刊スポーツ! 過去の6月14日付紙面を振り返ります。2009年の1面(東京版)はノア三沢光晴選手の試合中の事故死でした。

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 プロレス団体ノアの三沢光晴選手(本名同じ)が、13日の試合中に相手の技を受けて頭を強打し、亡くなった。46歳だった。広島県警などによると、三沢選手は広島市中区の県立総合体育館で行われたノアの広島大会で、メーンイベントのGHCタッグ選手権試合の4人タッグ戦に出場。午後8時45分ごろ、対戦相手のバックドロップ(岩石落とし)で投げられた。意識不明の状態で広島市内の病院に運ばれたが、午後10時10分、死亡が確認された。広島県警は試合関係者らから事情を聴き、当時の状況を調べている。

 日本プロレス界のトップレスラーの三沢選手が、試合中に相手の技を受けて亡くなるという衝撃的な事故が起きた。

 三沢選手はこの日、広島大会のメーンイベントのGHCタッグ選手権試合に、期待の若手・潮崎豪(27)と組んで挑戦者として出場。広島県警によると、試合は午後8時10分ごろに始まり、同選手は約25分後に相手選手のバックドロップを受けた。広島市消防本部によると、午後8時46分ごろに「40代の男性プロレスラーが1メートルの高さから首から落ちて動かなくなった」という匿名の通報を受け、救急車が出動した。

 ノアの公式携帯サイトや関係者によると、三沢選手は普段と違いふらつき気味で、試合中に頭を振っていたという。王者組の斎藤彰俊選手(43)のバックドロップを食らった直後に動かなくなった。異変を察知したレフェリーが試合を止め、王者組のレフェリーストップ勝ちで試合が終わると、リング上にトレーナーらが駆け込んで口々に「社長!社長!」と叫んだという。観戦していた広島市内の会社員の男性(32)によると、仲間のレスラーや救急隊員が心臓マッサージや自動体外式除細動器(AED)を使い蘇生(そせい)措置を施したが、三沢選手は動かなかった。この間、リングサイドからは「三沢、三沢」とコールが上がり、搬送後も約2300人の観客で埋まった会場は騒然とした状態が続いた。

 広島市中消防署によると、救急隊が駆けつけたとき、リング上では大会関係者が「リングドクター」と説明する医師が三沢選手に付き添い、「頸椎(けいつい)損傷の疑いがある」と説明。救急隊は心肺停止を確認した。救急隊が確認した限りでは、頭部には頭蓋(ずがい)骨陥没や出血を伴う開放骨折などの異常はみられず、鼻や耳からの出血もなかったという。

 三沢選手は81年に全日本プロレスでデビューした。故ジャイアント馬場さんの指導を受けて成長し、2代目タイガーマスクとして人気を集めた。マスクを脱いで本名に戻してからはトップレスラーとして活躍した。馬場さんが亡くなった後の00年には、当時の全日本所属のほとんどの選手を引き連れて独立し、新団体のノアを旗揚げ。社長を兼任しながらトップレスラーとして戦い続けた。

 今回は三沢選手にとって、シングルのベルトを懸けた、昨年3月2日のGHCヘビー級選手権試合(東京・日本武道館)以来のタイトル戦だった。8度目の防衛に失敗した、その試合でも三沢選手は対戦相手のバックドロップを受け、救急車で病院に運ばれた。バックドロップは背後から抱え上げられ、後頭部からマットにたたきつけられる技。受け身が取りにくく、過去には国内でも同じ技で心肺停止状態になったレスラーもいる。日本の男子プロレス界では00年4月の試合中に倒れ、入院後に亡くなった当時新日本プロレスの福田雅一選手(享年27)以来の試合での悲劇となった。

 ◆三沢光晴(みさわ・みつはる)1962年(昭37)6月18日、埼玉県越谷市出身。81年に全日本でデビュー。84年から90年まで2代目タイガーマスクとして活躍した。92年に3冠ヘビー級を初奪取。00年にノアを旗揚げした。01年に決定戦を制し、初代GHCヘビー級王座獲得。得意技はエメラルドフロウジョン。団体社長として新団体をメジャー団体に育てるなど、経営者としても活躍した。185センチ、110キロ。