1970~80年代にかけて日本で絶大な人気を誇った正統派プロレスラーのドリー・ファンク・ジュニアさんが4日(日本時間5日)、死去した。米プロレス団体WWEが発表した。85歳だった。マーティ夫人が地元紙の取材にフロリダ州でホスピスケアを受けていたと明かした。ドリー・ファンク・ジュニアさんは69年に28歳で世界最高峰のNWA世界ヘビー級王座を獲得。4年3カ月に及ぶ長期政権を築いた。74年の全日本プロレス参戦後は、実弟テリー・ファンクさん(2023年死去)とのタッグ『ザ・ファンクス』で日本のファンからも圧倒的に支持された。指導者としてもジャンボ鶴田やスタン・ハンセンら多くのトップ選手を育成した。

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子供の頃から名レスラーだった父ドリー・ファンク・シニアの英才教育を受けたドリーさんは、まさにプロレスの申し子だった。

デビューした63年にNWA世界ヘビー級王者ルー・テーズと引き分けて全米の注目を浴びた。69年2月に同王者ジン・キニスキーを破り、28歳の当時最年少で世界の頂点に立つと、73年5月にハリー・レイスに敗れて陥落するまで4年3カ月の長期政権を築いた。

69年11月に初来日。同12月のアントニオ猪木との60分フルタイムの死闘は今も名勝負として語り継がれている。そのほか日本では馬場、坂口らエースを相手に防衛を重ねた。

自らの体を何度も回転させながら相手の足首を攻める必殺技スピニング・トーホールドも有名になり、日本のロックバンドが曲にして、後に『ザ・ファンクス』のテーマソングになった。

77年12月に人気が“ブーム”となって過熱した。全日本の世界オープンタック選手権に3歳下の弟テリーとの「ザ・ファンクス」で参戦。同12月に東京・蔵前国技館で行われた最終戦で、アブドラ・ザ・ブッチャー、ザ・シークの「極悪コンビ」に、テリーが右腕をフォークでめった刺しにされるという凄惨(せいさん)な試合を大逆転で制して優勝。不屈の闘志と兄弟愛が日本のファンのハートをつかんだ。

以降、女性の親衛隊も登場するなど、ザ・ファンクスは外国人ながら全日本の看板レスラーとなった。79、82年の世界最強タッグ決定リーグ戦でも優勝した。しかし、その後はスタン・ハンセンやブルーザー・ブロディーらの台頭で80年代後半から来日回数が減った。一方、ドリーさんはジャンボ鶴田や天龍源一郎、スタン・ハンセンらを育成するなど指導者として手腕を発揮した。

08年3月の全日本の両国大会で引退試合を行い、09年4月にはテリーさんとともにWWEの殿堂入りしたが、その後もたびたび全日本で若手の壁として試合に出場していた。19年11月には東京・大田区体育館で開催されたザ・デストロイヤーさんの追悼興行に、ハンセンらとともに来日。24年8月には弟子の西村修さんとのコンビでタッグマッチに出場するなど、最晩年まで元気な姿を見せていた。

◆ドリー・ファンク・ジュニア 1941年2月3日、米インディアナポリス生まれ。後にテキサス州アマリロに移る。ウエスト・テキサス州立大時代はアメリカンフットボールで活躍。卒業後の63年にプロレスデビュー。69年2月にNWA世界ヘビー級王座を獲得した。74年の全日本参戦後は弟テリー・ファンクとのコンビ「ザ・ファンクス」で看板レスラーとして活躍。81年にはインターナショナル・ヘビー級王座も獲得。得意技はスピニング・トーホールド、エルボー・スマッシュ、ダブルアーム・スープレックス。全盛時は190センチ、115キロ。