あの人の教えがあったからこそ今がある。北海道にゆかりある著名人たちの、転機となった師との出会いや言葉に焦点をあてた「私の恩師」。モーニング娘。の元メンバーで、テレビ東京の紺野あさ美アナウンサー(28)は、札幌平岸小5、6年時の担任だった菊地正樹教諭(55)に「熱い心」を教えられた。アイドルからアナウンサーになっても支えになったのが、恩師と過ごした青春時代。今を作り上げた当時を振り返った。

 菊地先生は、すごい熱い先生でした。授業はもちろんですが、朝の会などでも、定番の曲ではなく、自分で選んだ曲を教室にギターを持ってきて、ジャン、ジャン、ジャン♪ って弾いて。覚えているのは、どのクラスもやっていない「嵐」という曲。先生がプリントを配り、まず先生が歌い、それをみんなで覚えて歌いました。「雨、雨、風、風、吹き荒れてみろ。そんな時こそ俺たちはまた強くなってゆく」という歌詞が、今も忘れられないくらい印象が強いです。

 何事にも真剣に取り組み、怒ってくれる先生。ただ楽しいだけでなく、私たちのことを真剣に考えてくれました。人と真っすぐに向き合うという気持ちを学びました。

 それは、今でも自分の根っことしてあるんじゃないかなと思います。私は上京したのが14歳。仕事もあり、学生生活を楽しむという青春は人よりも短く終えましたが、先生と出会って「青春ってこういうものなんだな」と、小学生のうちに感じることができました。

 仕事をするようになると大人の方と触れ合うことが多く、考え方が冷静になり、無邪気さがなくなるようなことってあると思うんです。でも、タレント時代も「来てくれる人に楽しんでもらいたい」と一生懸命やってこられたのは、先生が教えてくれた熱い部分が自分の中に残っていて、ドライになりすぎずにいられたからだと思います。

 実は昔は引っ込み思案だったんです。癖毛だったから写真が大嫌い。小5の時に母親に「ストレートパーマをかける! じゃないと学校に行かない」って泣いて、生意気にもパーマをかけたほど。修学旅行などでも、写真を撮る時は隠れて、よく「先生、紺野ここです」と報告されました。

 そんな私が、児童会の書記に立候補することになったんです。面談の時に先生に「もっと前に出ていい」と言われて、殻に閉じこもらずいこうと。気付いたら立候補していました。それも先生に出会って変わったところです。モーニング娘。に入ったことにも影響しているかもしれません。引っ込み思案のままだったらやっていなかったことでしょう。当時を知っている人は、今の私を見てびっくりしていると思います。

 とっておきのエピソードがあるんです。卒業してからも学校が好きすぎて、友だち3人で学校にお泊まりしたくて忍び込もうとしたんです。でも、親にはお互いの家に泊まりに行くと言っていたので、あっさりばれてしまいました。みんなに捜されて、先生も卒業式の後なのに来てくれました。その時は本当に怒られました。「ルールは守らなければいけない」と。卒業してからも怒られるなんて…。でも最後まで私たちと真剣に向き合ってくれた先生でした。

 モーニング娘。時代は、ダンスの劣等生でしたが、頑張って10年後、アナウンサーとしてですがダンスの番組を持てるまで成長しました。頑張ることを「格好悪いじゃん」とは思わない。それは先生が教えてくれたこと。アナウンサーになってからも課題が山積ですが、原稿読みが「たどたどしかったのに読めるようになったね」といつか認めてもらい「ちゃんと頑張って働いています」という姿を見せられれば、喜んでもらえるかなと思います。【取材・構成=松末守司】

 菊地氏 紺野さんが6年生の時、私の娘が入院したんです。元気のない私を見て、娘の手術が終わった1週間後にあった私の誕生日、黒板に「誕生日おめでとうございます」と書いてあったんです。みんなでやってくれたのですが、発起人が紺野さんでした。優しく、友だちからも信頼感のある子だったことを覚えています。

 前に出る子ではなかったですが、学級発表会でお姫様の役をやったりしてました。でも、他の生徒からモーニング娘。のオーディションに出ると聞かされた時は、そうなの? って驚きました。番組などで頑張っている姿を見るとやはりうれしいです。いつまでも輝いていてほしいですね。

 ◆紺野あさ美(こんの・あさみ)1987年(昭62)5月7日、札幌市生まれ。01年8月、第5期メンバーとしてモーニング娘。に加入。06年7月卒業。高校卒業程度認定試験に合格し、07年4月に慶大環境情報学部入学。11年4月、テレビ東京入社。12年「世界卓球選手権」のリポーターも務めた。156センチ。血液型B。