93年のダービー馬ウイニングチケットが18日、けい養先の北海道浦河町の「うらかわ優駿ビレッジAERU」で、疝痛(せんつう)のため息を引き取った。33歳だった。

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ウイニングチケットがいなければ、競馬記者になっていなかったと思う。日刊スポーツにも入社していなかっただろう。人生を変えてくれた1頭だ。

バイトの先輩に連れられて、初めて競馬場に行ったのは93年10月17日の京都競馬場。メインレースは菊花賞トライアルの京都新聞杯だった。逃げ切り態勢に入っていた武豊騎手のマイヨジョンヌを、猛然と追い込んできた黒い馬が差し切った。ウイニングチケット。一瞬で好きになった。

競馬なんてまったく興味がなかったのに、チケットを追い続けた。ただ、その後は1度も勝利するチケットを見られなかった。だから余計に、目の前で差し切ったあの姿が記憶に残ったのかもしれない。

柴田政人騎手にダービーを勝たせたこと、ビワハヤヒデ、ナリタタイシンと3強と称されたこと、すべてあとから知った。3歳の有馬記念で11着に大敗した時、そして結果的に引退レースとなった天皇賞・秋で8着に沈んだ時、自分のことより悔しかった。

名前が好きだった。「勝利への切符」。勝手にそう訳していた。競馬にはまり、競馬記者を志し、日刊スポーツで予想できることになった時、当時の栗東・伊藤雄二厩舎に足を運んだ。もちろん、チケットはもう引退していた。伊藤雄師にお願いした。自分の予想コラムのタイトルを「ウイニングチケット」にしていいですか? と。「もう昔の馬だからね、どうぞどうぞ」と師は優しく笑って許可してくれた。

08年の夏、凱旋門賞の事前取材でメイショウサムソンの牧場へ行った。その道中、チケットが余生を過ごしていた浦河町の「アエル」に寄った。誰もいない放牧地で声をかけてみた。寄ってきてくれた。本当に。初めて間近で会った。

「キミのおかげで、こういう仕事をしています。ありがとう」

伝えられてよかった。【中央競馬担当=伊嶋健一郎】