まだ現役だった三江線の駅巡り(2016年5月)。「天空の駅」宇都井駅(島根県邑南町)の後に目指したのは「普通列車も通過する」ことで有名だった長谷駅(広島県三次市)。美しい江の川の景色が見られる駅だった。ただ途中の船佐駅(広島県安芸高田市)では私が知らなかった歴史に触れ、立ちつくしてしまった旅にもなった。



三江線は江の川に寄り添うように走っていた。路線図を見ると、このまま木次線と合流するのではないかというほど北に向かったと思うと、日本海への“最寄り”になるはずの大田市には向かわず南下して江津へと進む。江の川に寄り添っているからだ。トンネル技術が発達していない時代、山中に敷設された路線には、このような形が多い。川沿いこそがレールを置けるスペースだったのだから。

その川沿いを三次へと戻った。途中の駅はどれも魅力的だが、目指すのは1日2往復半しか列車が停車しない長谷駅である。レールは江の川をはさんで集落や国道とは逆サイドに敷かれていることが多く、これが乗客を減らした要素のひとつでもあるのだが、線路に沿った狭い道をソロソロ走っていくと、目に入ったのが船佐駅(写真〈1〉)。


〈1〉船佐駅の駅舎
〈1〉船佐駅の駅舎

ユニークな構造だ。ロータリー形式の駅前広場、その隅に駅舎があり、ホームはちょっと離れたところにある(写真〈2〉〈3〉)。案内板らしきものが目に入った。「このあたりに観光地でも?」。何も知らない私は前まで進み、間もなく絶句してしまった(写真〈4〉)。


〈2〉船佐駅は駅舎から広場を横切ってホームに行く構造になっていた
〈2〉船佐駅は駅舎から広場を横切ってホームに行く構造になっていた
〈3〉船佐駅のホームと駅名標
〈3〉船佐駅のホームと駅名標
〈4〉船佐駅付近で犠牲者が出たことを記していた
〈4〉船佐駅付近で犠牲者が出たことを記していた

「空爆被災の地」とある。戦争末期の1945年5月5日、この地に飛来した米軍機1機が江の川をはさんで3発ずつの爆弾を落とし、うち1発が船佐駅近くの家に落ちて7人が犠牲になった。広島県内では原爆まで45回の空襲があったが、いずれも瀬戸内海沿岸で、山中の空襲は、これ1回だけだったという。

全く知らなかった私は、その後、いろいろ調べたが、近くに水力発電所こそあったものの、なぜまだ駅もなかったこの地(船佐駅の開業は10年後)が攻撃されたかは分からないという。戦争末期、米軍機の攻撃を受けた鉄道施設や車両には「ゲーム感覚」のように襲われたとしか思えないものが多く存在する。無知だった私が言うのもおかしな話ではあるが、残し語り継がねばならないものだろう。

船佐駅から長谷駅は約2キロ。狭い道路をそろり運転してもすぐ着いてしまう。駅は高台にあった〈写真5〉。付近の小学校が廃校となってしまったため、近くに住む子どもが三次の街へ通学するために設置された。そのため三次行きが午前に2本、三次からの列車が午後から3本と、前々回に書いた北海道の「白滝シリーズ」のようなダイヤとなり、子どもがいなくなった後も、そのダイヤが維持されてきた。


〈5〉長谷駅は高台にある
〈5〉長谷駅は高台にある

普通列車も通過する駅だったが、しっかり駅舎もある(写真〈6〉〈7〉)。高台のホームからは江の川の眺望が広がる。宇都井駅とは、また異なる景色だ。訪問時は新緑の季節で晴天。暑さもない絶好の季節。何時間でもぼんやりしていたい気分だ(写真8)。


〈6〉階段を上ると駅舎があり、その先にホームがある
〈6〉階段を上ると駅舎があり、その先にホームがある
〈7〉駅舎内の時刻表。三次行きは朝9時が最終列車だった
〈7〉駅舎内の時刻表。三次行きは朝9時が最終列車だった
〈8〉長谷駅のホーム。江の川の眺望が素晴らしい
〈8〉長谷駅のホーム。江の川の眺望が素晴らしい

目の前を穏やかに流れる江の川は豊かな恵みを与えてくれる。だからこそ人が住み、線路や道路ができる。ただ、その川は時として表情を変える。豪雨で不通になるだけでなく、橋げたが流失したこともある。雪深い地域だけに日々のメンテナンスも大変だ。その度に復旧を果たしてきたが、多くのお金と人が必要となる。増発での社会実験も行った。観光列車も走らせた。JRもやることはやったと思う。廃線決定の報を受けた時、脳裏に浮かんだのは長谷駅からの光景だった。

さて本来は1回目で駅訪問、2回目で乗車記をと考えていたが、とてもまとまりきらず、駅訪問だけで2回を費やしてしまった。乗車記と後日談は、少し間を置いてから記そうと思います。そうでないと、またまとまらない原稿になつてしまう。できれば次に良いニュースがあったタイミングで書きたいと思っています。【高木茂久】