日本の大動脈である東海道本線に存在したにもかかわらず、お客さんが少なすぎて昭和末期に廃止された駅がある。鉄道黎明(れいめい)期ならいざ知らず、平成近くに廃駅の東海道本線の駅とは? そんなクイズのような廃駅を求めて岐阜県は関ケ原を訪れた。こちらは天下だけでなく線路も「分け目」なのだ。訪問は3月15日。現時点で最後の旅の前編です。

 
 

まずは関ケ原駅である(写真1、2)。この地名を知らない人はいないだろう。さらに言うと岐阜県の最西端駅だ。近畿と中部を分ける大きな分け目なのだが、今回目指す分け目は同じ岐阜県内で逆側。まずは上り電車に乗る(関ケ原から岐阜方面に向かうのが上りで、岐阜から関ケ原に向かうのが下り。この後、何度も出てくるので念のため)。

(1)関ケ原の駅を降りると歴史があふれている
(1)関ケ原の駅を降りると歴史があふれている
(2)関ケ原の駅名標
(2)関ケ原の駅名標

電車では先頭車の最前部にかぶりつき。ここからの区間は勾配(坂)がある。昨年4月8日に書いた山陽本線の瀬野八(広島県)と同じ行動。勾配を堪能しながら、お隣の垂井では降りず、さらにもう1駅向こうの大垣で下車(写真3)。ちょうどお昼時だったこともあった。岐阜県第2の都市で、ここでは食事に困ることはない。本欄では昨年12月5日の赤坂支線に次いでの登場。今後も養老鉄道や樽見鉄道で登場しそうな交通の要衝である。

そばをいただいた(写真4)が、ここでいつもと違う行動。そば屋さんといえば「昼からビール」が確実にいける、私には重要なお店なのだが、帰宅してから車を運転する可能性を思い出して自重。これが後に大きなポイントとなるとは、そばをすすっている間は夢にも思わなかった。

(3)交通の要衝である大垣駅
(3)交通の要衝である大垣駅
(4)大垣駅前でそばと飛騨牛のセット
(4)大垣駅前でそばと飛騨牛のセット

駅に戻ってさきほど来た東海道線を逆戻り。しばらくすると荒尾信号場が現れ、東海道線の本線上下線と赤坂支線の3方向に分岐する。

と、さらり書いたが、えっ? である。支線が分岐するのは当然だが、上下本線が分岐するのは不自然な話である。これが今回の旅のポイント。大垣と関ケ原の間で東海道線は上下線が大きく離れている。前述した通り、この区間は勾配があり、下りは坂を上らなければならない。パワーの足りない蒸気機関車時代は大垣でもう1機の機関車を加える必要があり、長時間の停車が必要だった。

この停車が問題化されたのは太平洋戦争時。ムダな時間を何とかせよ、ということで、やや遠回りながら勾配の少ない線路が敷設されたのは1944年の秋。こちらも戦時中に全線開通した函館本線の砂原支線と同じ理屈である。ただ函館本線と違うのは、東海道線は複線だったこと。勾配が問題なのは下りだけということで、新たに敷かれた線路は1本。垂井をパスして関ケ原に向かう形となったが、その際、従来の下り線は外されてしまった。

なんでそんな面倒なことを、と思うかもしれないが、時代は戦時中。外されたレールは金属供出の対象となった。戦時中に金属供出となった路線は各地であり、複線が単線になって今もそのままという例として御殿場線や阪急の嵐山線がある。両線とも車窓から不自然な空間を目にするのはそのためだ。

話を戻そう。下りの線路がなくなったことで垂井駅は上りだけの駅となってしまい、代替駅として新たな下り線に設置されたのが新垂井駅だ。そのためこの下り線は新垂井線と呼ばれている。とはいえ垂井駅とは、とても徒歩で行ける距離ではなく、実に不自由。戦争が終わるとわずか1年で垂井駅の下り線が復活。当然、旅客は垂井駅を利用する。それでも東海道線の下り本線は新垂井線のままなので新垂井駅は残ったが、あまりの利用者の少なさに国鉄末期に廃駅となってしまった。

(5)垂井駅の駅舎
(5)垂井駅の駅舎
(6)垂井の駅名標
(6)垂井の駅名標
(7)垂井駅前の案内図。新垂井線はかなり北側を通っているのが分かる
(7)垂井駅前の案内図。新垂井線はかなり北側を通っているのが分かる

今回はそこを目指す。だがどうやって行くのか? 調べると垂井町の町営バスがあるようだが、平日のみの運行のようだ(当日は日曜日)。垂井駅で降りて確認すると、やはりない(写真5、6、7)。タクシーはいるが帰路はどうする? 途方に暮れかけた時、思わぬものが目に飛び込んできた。【高木茂久】