愛媛県の山中を走るJR四国の内子線。約5キロと短く、廃線危機を迎えながら一転、特急がビュンビュン走る重要路線に変身した全国でも珍しい奇跡の復活路線である。私にとっても思い出深い新谷、内子を久しぶりに訪れた。新谷は「銀河鉄道999の始発駅」でもある。(訪問は9月22日)
新谷(にいや)駅前には銀河鉄道999をモチーフとしたモニュメントがある(写真1~5)。作者の松本零士さんは戦時中に新谷に疎開。そこで見た駅舎や蒸気機関車が作品のモチーフになったという。新谷1万石の古い街並みが残る駅前は「999通り」。新谷は「銀河鉄道999の始発駅」である。
私が初めて新谷を訪れたのは24年前の春。最寄りの帝京五高の野球部を取材するためだった。その年の愛媛県代表は松山商で、今も何度も映像が出る決勝戦での「奇跡のバックホーム」で全国制覇を果たした。この年の愛媛県はハイレベルで、松山商は準決勝で岩村明憲選手を擁する宇和島東を、決勝で日ハムにドラフト1位で入団した矢野諭投手を擁する帝京五を下して甲子園に駒を進めた。
岩村選手、矢野投手ともに早い時期からドラフト上位は確実とされていただけに春から松山、新谷、宇和島にはせっせと通った。当時の帝京五の監督は13年に亡くなられた一色俊作さん。一色さんといえば、こちらも語り草の69年の選手権決勝、延長18回再試合となった松山商対三沢での松山商の監督。その後は新田を率い90年センバツではミラクルの連続で準優勝に導いている。(写真6)
物心ついた私が鮮明に覚えている最初の野球の試合だと話すと、とても喜んでくれ、甲子園で2勝するより難しかったという北四国大会(当時は香川と愛媛で1代表だった)での激闘など、行く度にいろいろな話をしてくれた。
おもしろかったのは早々に負けてしまったセンバツ後のエピソード。せっかく関西まで来たのだからと、同じように早期敗退した現在の中京大中京に声をかけ、県芦屋と3校で練習試合をしたところ甲子園に負けないぐらいのお客さんが入ってしまい、その後同様の行為には自粛令がかかったという。濃厚な思い出の多い新谷駅に来ると当時を思い出してしまう。
その新谷駅は内子線の起点駅としての顔を持つ。起点駅といっても新谷は松本零士さんの見た駅舎も撤去され、対面のホーム2つがあるだけの無人駅(写真7、8)。特急も猛スピードで通過していく。そもそも特急の乗客に内子線の意識はないかもしれない。
大正時代に開業した内子線は木材運搬が主目的で予讃線の五郎から分岐する、いわゆる盲腸線だったが車社会の発展で利用者は激減。国鉄時代は廃線ピンチに陥った。
ところが予讃線の短絡線構想が内子線に奇跡をもたらす。海沿いをグルリと回る予讃線をショートカットすべく山中にトンネルを掘って伊予大洲に向かうルートに内子線が組み込まれたのだ(ただし線路の付け替えは広範囲で行われ、五郎~新谷は廃線となった)。
工事が完成したのは86年春でJR移管1年前。移管が決まった上での工事は、経営が楽でないことが予想されたJR四国へのプレゼントの側面もあっただろうが(国鉄末期にはJR四国向けの車両も作られている)、それほど期待された新路線だということだ。以降、観光列車以外の優等列車はすべて内子線経由となったが、予讃線と一体の運行のため、内子線は名が残るだけの路線にもなった。
工事で駅の位置が変わり、ホームの一部がトンネルにある五十崎(写真9、10)を経て「終点」の内子駅へ。内子線4駅で唯一特急が停車する(写真11、12)。
実は内子線で初めて訪れたのがこちらで、まだ昭和だった。今にして思うと新線の完成間もないころ。野村真美さん主演のドラマのロケで内子座や内子の町並みに感動したのが昨日のことのようだ。私事で恐縮だが内子線のわずか5キロは、とてもノスタルジックなのである。【高木茂久】