並行していた山陽電鉄ではわずか1駅の区間は、国鉄高砂線の廃線跡が最も色濃く残る部分でもある。線路跡、橋梁(きょうりょう)跡が住宅街に残るだけに、より印象深い。終点の高砂駅付近は遊歩道に転換されているが、古くからの住宅が線路跡だったことを伝える。国鉄からJRへと、昭和から平成を経て令和を迎えても都市部でしっかり時代を残している。(訪問は昨年11月、今年11月)
高砂線は高砂港への貨物輸送のため私鉄により敷設された。加古川を利用しての船輸送を鉄路輸送に替えるもので、戦時中に国鉄となった。戦後は国鉄高砂工場が設置され、神戸製鋼など複数の工場線が設けられるなど貨物輸送でにぎわったが、貨物が主目的だったことが寿命を縮めたのかもしれない。
廃線となった36年前と現在では光景も異なっているが、加古川から市役所、鶴林寺を経て高砂を結ぶ沿線人口は少なくはない。にもかかわらず旅客列車の昼間の運行は1~2時間に1本というもので都市部の利用者にとって利便性に富むものではなかった。貨物の衰退とともに大正期からの使命を終えることになる。
山陽電鉄尾上の松以西は高砂線と山陽電鉄が並んで走っていたが、この部分は今もくっきり廃線跡が分かる。いかにも線路がありました、という空き地が続くからだ(写真1、2)。
フェンスに囲まれ立ち入ることはできないが(以前は歩くことができたが、いつの間にかフェンスが設けられていた)、雑草は刈られている。
廃線跡はそのまま続き、大小の橋梁(きょうりょう)やレンガ造りの土台、踏切跡がそのまま残る(写真3、4)。
橋梁には枕木も置かれたままだった。ひとつだけ分からなかったのは、公園内を不自然に占拠する路盤。分岐線があったようだ(写真5)。
そのまま進むと(駅名ではなく河川の)加古川に行き着く。ここでは山陽電鉄の踏切跡も見ることもできるが、ここで絶句。川を渡ることができないのだ(写真6)。
過去、電車で車でと数え切れないほど加古川を渡ったが、これほど渡るのが困難だとは知らなかった。山陽電鉄の線路からは南北ともに橋はほど遠い。そして、ここまできれいに残っていた橋梁は加古川部分だけはすっかり取り除かれている(写真7、8)。
この橋梁の老朽化による危険性が廃線の一因だともされる。旧野口駅から旧高砂駅までは約4キロ。11月にはちょうど良い散策路で順調に歩いてきたが「コの字」移動はしんどそうだ。少考した末、尾上の松まで戻って山陽電鉄で1駅移動することにした(写真9)。
加古川を渡ると廃線跡は遊歩道となっている。最初に出会うモニュメントは高砂線のものかと思ってしまうが、山陽電鉄高砂駅のもの(写真10)。かつては現在地より100メートル東にあったことを示している。ただし移設されたのは高砂線の廃線より20年以上前の話。そこから道路を挟んだ西側が山陽電鉄との乗換駅だった高砂北口の跡である。
路線跡だということはすぐ分かる。緩やかなカーブの両側の建物がいずれも背中を向いているからだ(写真11)。
住居や商店を作る際、線路側に玄関を設けるはずがない。当時のままの光景が残っているのだろう。さらに遊歩道を行く。分岐で使用する転轍(てんてつ)器や腕木式信号を眺めながら終点の旅客列車の高砂に到着(写真12)。高砂北口から徒歩10分弱。車輪と石碑が残されている(写真13、14)。
ちなみに山陽電鉄の高砂はかつて電鉄高砂という駅名だった。国鉄の高砂と離れているのが考慮されていたのだろうか、高砂線廃止後に電鉄の2文字が外れている(写真15)。
廃線から3年後、国鉄を引き継いだJRは西明石以東の複々線を自由に使えるようになったことで新快速を頻発。朝の通勤時にも投入され、加古川は神戸や姫路だけでなく、所要時間約50分の大阪へも十分な通勤圏となった。山陽電鉄でも阪神との直通特急で高砂から乗り換えなしで大阪まで行けるようになった。
実は1度だけ高砂線に乗ったことがある。高校生だった70年代の後半だと思う。「思う」と書いたのは記憶がほとんどないから。複数の友人と加古川からバスで高砂まで行こうとしたが、誰かが「列車がすぐ出るぞ」と言って乗り込んだ。ただしおしゃべりに夢中で「もう着いたのか」とドヤドヤ降りた。記憶はそれだけ。今にして思えば高砂北口だったのだろう。貴重な体験になったはずなのに残念でならない。そして朝から夜まで基本12両編成、昼間も15分間隔の運行で多くの乗客を運ぶ新快速を見ると高砂線も、もう少し工夫はなかったのか、頑張れなかったのか…こちらはもっと残念な気持ちでいる。【高木茂久】

















