ヤンキース、カブスで監督を務め、ヤ軍ではGMとしても常勝軍団の礎を築いたジーン・マイケル氏が7日午前、心臓発作のためにフロリダの自宅で亡くなった。79歳。

 すらっとした体形から「スティック(棒の意)」の愛称で知られ、現役時代は名ショートとしてならした。ヤ軍のコーチ、監督になってからも男気あふれる人格者として周囲の信頼は厚かった。

 95年にGMの職を退き、スカウト部門の副社長となったが、コア4(ジーター、リベラ、ポサダ、ペティット)を中心とした96年、98年、99年、00年の世界一はマイケル氏が作ったチームとする声も多い。09年ワールドシリーズ優勝も、MVPの松井秀喜は同氏が獲得に関わった選手だ。

 97年に環太平洋業務部長としてヤ軍入りし、伊良部秀輝投手の通訳も務めた石島浩太氏(55)もマイケル氏について「人格者で正義の味方。私は大好きでした」という。そして「コーチ、監督時代にはあのジョージ・スタインブレナー・オーナー(故人)と怒鳴り合いもしょっちゅうでした。でもその真っすぐさをオーナーも好いていました。キレると本当に怖かったですけど」と振り返った。

 伊良部はせかされながら97年7月10日のタイガース戦でヤ軍デビュー。勝利を飾った。だが同年8月下旬から調子を落としていった。そんな時、当時のマーク・ニューマン編成部門副社長らは、石島氏ら周囲の人間に伊良部不調の責任を押しつけようとした。だが「スティックだけは私の肩をたたいては『負けるな、まだまだ時間がかかるから。ヤツ(伊良部)を焦らせるなよ』と励ましてくれました」(石島氏)という。

 ヤ軍はこの日、声明を発表。ハル・スタインブレナー共同オーナーは「スティックは何十年もヤンキースの柱だった。彼は野球を非常に良く知っていて、声が届く範囲のだれとでも野球談議に花を咲かせることが好きだった。彼のヤンキースへの貢献度は計り知れない。彼は野球とこの球団を愛した。彼がいなくなり、多くの人々が寂しがるだろう」とマイケル氏の死去を惜しんだ。

 またブライアン・キャッシュマンGMも「スティックが亡くなり、心が張り裂けそうです。彼は友人であり、私の師匠でした。私のキャリアを通じて、彼の助言、指導を頼りにしてきました。彼は選手、コーチ、監督、GM、スカウトと、この球団ですべてを担ってきました。彼の知識は比類なきものです。寂しくなります」とした。

 ヤ軍は喪章をつけて7日のオリオールズ戦に臨んだ。アーロン・ジャッジ外野手(25)の今季39号本塁打などで、9-1で勝利。白星を天国のマイケル氏に届けた。