力道山のルーツはハリウッドにあった-。日本のプロレスの父、力道山が亡くなって12月15日で没56年。この機にあわせ元週刊プロレス、週刊ゴング外国人レスラー番のスポーツライター、トシ倉森さん(65)が秘蔵写真とともにプロレスラー力道山誕生の秘話を語った。2週目はカギを握るアドレーの強さと力道山のリベンジについて迫ります。【取材・構成=高場泉穂】

82年、力道山との思い出を振り返るアンドレ・アドレー(トシ倉森氏提供)
82年、力道山との思い出を振り返るアンドレ・アドレー(トシ倉森氏提供)

1951年(昭26)、初めてリングにあがった力道山に裸絞めを決め、泣かせ、プロレスの世界へと導いたアンドレ・アドレーとはどのような人物だったのか。生前のアドレーと親交があった倉森氏は“プロレスの神様”カール・ゴッチの言葉を借りて、説明した。「ゴッチは、『彼こそが、リアルレスラーだ』と話していました」。

アドレーは多彩な才能を持った男だった。1906年、フランスで生まれ、4歳の時に米国へ移住。高校卒業後にヘビー級のプロボクサーとなり、20歳でプロレスラーとしてもデビュー。188センチ、99キロと恵まれた体でいずれも活躍したが、次第にプロレスに情熱を傾けていった。「30年代の米国ではプロレスを見ることが一種のステータス。ハリウッドの常設会場では映画俳優がリングサイドを陣取っていたそうです。その中の常連の1人がチャーリー・チャプリンで、アドレーのファンでした」。

1936年、チャーリー・チャプリンの専属スタジオでチャプリン専属カメラマンが撮影したアンドレ・アドレー。アドレーはチャプリンお気に入りの選手だった(トシ倉森氏提供)
1936年、チャーリー・チャプリンの専属スタジオでチャプリン専属カメラマンが撮影したアンドレ・アドレー。アドレーはチャプリンお気に入りの選手だった(トシ倉森氏提供)

チャプリンと親しくなったアドレーは、映画「街の灯」の演技指導を任される。放浪者役のチャプリンがボクシングをする名シーンは、アドレーあって生まれたものだった。その後、映画俳優、スタントマンとしても活躍。映画界の格闘指導のパイオニアともなった。確かな技術と経験を持ったアドレーに、“新入り”の力道山が敗れたのも当然だった。

屈辱の涙から約12年後の1963年(昭38)1月、力道山にリベンジのチャンスが訪れる。2度目の来日を果たしたアドレーと愛知・豊橋で行われた興行の6人タッグマッチで対戦した。力道山はマスクマンとして参戦した57歳のアドレーに空手チョップを連打した。「控室に戻ると激痛が走り、調べると鎖骨が折れていたらしいです。アドレーは『力道山は私にリベンジしたんだ』と笑いながら話していました。『東洋の偉大なレスラーに成長した彼にレスリングの手ほどきをしたことに誇りを感じたし、成長が実にうれしかった』と」。

この年の12月8日、力道山は赤坂のナイトクラブで刺され、同15日にこの世を去った。「まるでリベンジするのを待っていたかのよう」と倉森氏。ハリウッドをルーツに持つ力道山のプロレスラー人生は、映画のように幕を閉じた。

トシ倉森氏
トシ倉森氏

◆トシ倉森 1954年(昭29)12月2日生まれ、長崎市出身。京都産業大学外国語学部英米語学科卒業後、79年に渡米し週刊ファイトの特派員として全米マット界を取材。81年にカリフラワー・アレイ・クラブの正会員となる。83年に帰国後、ベースボール・マガジン社に入社し、「週刊プロレス」の創刊号から主に外国人レスラーを担当。「相撲」編集部を経て、日本スポーツ出版社に入社し、「週刊ゴング」編集部勤務。退社後、SWSの設立メンバーとして広報担当。現在はスポーツライター。著書「これがプロレスのルーツだ!カリフラワー・レスラーの誇り」(電子書籍)、上田馬之助自伝「金狼の遺言」(共著)。