さかのぼること20年ほど前、初診の80代女性の口を拝見した際に、歯ぐきが剣山で引っかかれたような傷だらけで驚いたことがありました。原因は「塩」によるブラッシング。歯ぐきをこすればこするほど健康になると信じていたそうです。食塩(塩化ナトリウム)はどの家庭にも常備され、手に取りやすいものであるがゆえ、歯磨剤代わりに使う、あるいは歯ぐきのマッサージに欠かせないという方が今でも一定数いらっしゃいます。
塩化ナトリウムには血管や組織を引き締める効果(収れん作用)があり、歯ぐきに生じた浮腫や出血の消退が認められたと1960年代に報告されています。組織学的にも白血球の減少や、うっ血の改善が見られる等の効能から、歯ぐきの炎症を抑える作用を期待して歯磨剤の薬効成分にも含まれているのは事実です。
しかしながら食塩単体を日々のオーラルケアに取り入れた場合、どれほどの効果があるかという点はクエスチョンです。虫歯や歯周病の予防には、何よりもバイオフィルム(歯垢=しこう)の除去が必須です。歯ブラシなどで機械的にこそげ落とす際、清掃剤(歯を傷つけずに汚れを落とす作用)や発泡剤(口の中に拡散させ汚れを包み込む作用)が含まれた歯磨剤を併用した方がプラーク除去に効果的であるということはさまざまな研究からわかっています。
食塩を擦り込む行為は、歯ぐきの腫れという症状を一時的に緩和させるには役立つかもしれませんが、そもそも炎症を生じさせている原因がバイオフィルムの蓄積であることが多いため、ブラッシングの主目的となる「外敵を排除する威力」は弱いと考えたほうがよいでしょう。長い人生、口の中を健康に保つためには知識のアップデートも必要です。

