東京オリンピック(五輪)が来年2021年に延期になり、日刊スポーツの記者は今、何を思うのか? 新型コロナウイルスの世界的な感染拡大の影響は大きく、開催は不透明な面もある。前回の特集に引き続き、報道現場の声を伝えます。
■今こそ理念が生きる時 首藤正徳
日本人の“五輪好き”は筋金入りである。ひとたび開幕すると列島が五輪一色に染まる。注目選手の試合は、たとえ真夜中でもテレビにかじりつく。12年ロンドン大会の開会式は早朝の中継にもかかわらず、24・9%(関東地区、ビデオリサーチ調べ)の驚異的な視聴率を記録した。
商業化にかじを切った84年ロサンゼルス大会で、NHKと民放テレビ局がチームを結成し、全局で五輪を中継する体制を確立した。当時、日本テレビから現地派遣された、現WOWOWの田中晃社長は昨年の取材で「全局で五輪が見られるのは世界でも日本だけ。それが日本人が五輪好きになった要因」と語っていた。
民放が視聴率を稼ぐためにプロモーションに力を入れ、中継に人気タレントを起用したことでスポーツに興味の薄かった人たちにも認知度が浸透した。陸上や水泳、体操などの人気競技は世界選手権も中継。選手の人間ドラマを手厚く伝えることで共感の輪が広がり、1億総応援団と化した。2度目の東京五輪は集大成のはずだった。
その五輪熱がコロナ禍で一変した。今月20日に公表された共同通信の世論調査では「再延期すべき」と「中止すべき」の合計が70・1%と3分の2を超えた。感染の不安、生活の糧を失う不満の矛先が夢の祭典に向けられた。自分たちの懐に直結する現実になったのだ。山下泰裕の涙の金メダルに高橋尚子の笑顔のゴール、北島康介の“超気持ちいい”の絶叫……筋書きのないドラマが国民の心を豊かにし、五輪ファンを増やした。世論はいつも五輪の味方だった。その流れが止まったのだ。
延期開催は抜本的な簡素化と追加経費の透明化は大前提。その上でスポーツ界が、それでも五輪を開催する意義を具体的に語り続ける必要がある。コロナ後はただ「開催したい」は通用しない。五輪を開催すれば社会にどんな未来があるのかをていねいに語り、自分たちで味方を増やしていかなければならない。
五輪の理念は『スポーツを通した平和な世界の構築』。確かに肥大化と過度な商業化への批判は強い。しかし、一方でコロナ禍で世界が分断され、国家間の対立が顕著化しはじめた今こそ、五輪の理念が生きる時でもある。コロナ禍でもできる五輪があるはずだ。災厄を乗り越えて新しい五輪を実現させた時、日本は真の意味で、世界に誇る五輪好きの国民になれるのだと思う。
◆首藤正徳(しゅとう・まさのり)88年入社。五輪は92年アルベールビル冬季大会、96年アトランタ大会を取材。08年北京、12年ロンドン大会は統括デスク。現在五輪パラリンピック担当委員。
■精神的3密で世界平和 荻島弘一
感染拡大が止まらず、終息の気配も見えない。五輪の熱にあふれ、話題も大会一色になるはずだった東京の街が、新型コロナウイルスの恐怖におびえている。選手を鼓舞するはずの「大きな声」は避けられ、肩を組み合って歓喜する「密」も禁じられた。すべてが、大きく変わった。感染症という見えない敵のために。
選手の落胆は想像に難くない。リオから4年、いや東京大会が決まった13年9月から7年、ゴールを目指して走ってきたはず。選手だけではない。大会にかかわるすべての人たち。目指してきたゴールが見えなくなった。失望は大きい。
1年後の開催も不確定要素がつきまとう。大会組織委員会は会見のたびに「本当に大丈夫か」と聞かれるが、彼らにも分かるはずはない。それほど、相手は強大だ。発生から半年たっても、海外に出ることはおろか、県またぎさえままならない。これで、東京五輪などできるのだろうか。
ワクチンか治療薬の完成-。大会開催の条件と言われるが、現実的には無理だろう。1年ではない。中断している各競技の予選を考えれば、あと半年程度しか時間はない。「開幕日に間に合えば」ではない。現状では来年が「終息後」になるとは考えられない。
五輪を支える理念に「オリンピズム」がある。五輪憲章の根本原則には「平和な社会の推進を目指すために、スポーツを役立てる」とある。国境も、宗教も、人種も超えて、世界中の選手が集まる。五輪憲章で設置を定められた選手村で、国や競技の違う選手が交流し、触れ合う。「3密」は五輪のカギでもある。
それでも、東京五輪は開催してほしい。入国制限が残っていても、世界中から選手を受け入れること。PCR検査を徹底し、選手は村に「隔離」する。観客数など他は制限しても、競技だけは実施する。できるか否かではなく、やるためにどうするか。選手のために、そして、世界中の人々のために。
これまでと同じ五輪ではない。しかし「今までと違う」ことを我々は学んできている。特に日本人は、生活様式の変化にも慣れた。たとえ無観客になっても、動画配信での楽しみ方も知っている。日本でなら「新型コロナ下での五輪」が開催できる。無症状でも感染リスクはあるし、選手からも感染者が出る可能性はある。それも前提での開催。それでも、五輪の価値は変わらない。精神的な「3密」が、世界平和につながる。
◆荻島弘一(おぎしま・ひろかず)84年入社。五輪は競泳、柔道、レスリングなどを担当し、88年ソウル大会から取材。スポーツ部デスク、出版社編集長などを経て08年から編集委員。
■人生観変えた現場の熱 広重竜太郎
目の前に奇跡を起こしたヒーローがいた。96年4月、テニスのフェド杯。伊達公子が当時世界ランク1位のグラフを破った。記者会見で高揚する報道陣の質疑に伊達が答えている。私は挙手をしなかった。いや、できなかった。首に取材IDを提げていない。単なる18歳の大学生だった。
初めてのテニス観戦で歴史的瞬間を目撃した。熱狂の有明コロシアムの空気感に後押しされ「会見場に行ってみよう」と思い立った。そして強行突破することもなく、スルリと普通に入れてしまった。今のセキュリティーでは考えられない。決して褒められた行為ではない。だが、あの時の「現場での熱」がいつまでも、心にまとわりついた。記者になりたい。漠然とした思いが断固たる決意に変わった。
01年に記者になった。野球、サッカーなど幸運にもさまざまな世界を見る機会を得た。東北高で持て余す才能を制御できていないダルビッシュの青春期を見た。06年W杯決勝では頭突きをかましたジダンの狂乱に絶句した。だが日々の興奮も年輪を重ね、セピア色にあせていく。「有明の奇跡」のような体験は少なくなっていった。
五輪は別格だった。鮮やかな色彩を放っていた。10年バンクーバー五輪。スピードスケートを担当し、4年に1度の戦いに臨む者たちの日々を追った。周囲に物語の裏側を聞き続けた。祭典。記者としては一線を引くべきだが、単純に日本を代表して戦うアスリートに感情移入していた。
男子500メートルで長島圭一郎はゴール後の掲示板の2位を確信できなかった。首をかしげながら記者席の前で「オレ2位?」と報道陣に叫びながら確認したほど。「2位だよ! 銀メダル!」と自分を含め、多くの記者仲間が叫び返した。連帯感が生まれた光景は忘れられない。
不条理なウイルスにより、1年後に延びた東京五輪で「現場の熱」に立ち会えるのか。IOCのバッハ会長は「無観客での開催は望んではいない」と発言したが、完全形での開催が難しくなってきていることは誰の目にも明らかだ。
アスリートの不安にさいなまされた心情を、今の私は軽々に表現できない。だが「五輪を見る者」の立場に立てば、1人でも多くの人が五輪に足を運べることを願う。無尽蔵の熱量は見る者の人生観を変えると信じている。
◆広重竜太郎(ひろしげ・りゅうたろう)01年入社。五輪は10年バンクーバー大会を取材。現在は野球部で日本野球機構(NPB)と稲葉監督率いる侍ジャパンを担当。
■来夏最後の日本開催?! 木下淳
長野県で生まれた。17歳の98年に冬季五輪が行われた。高校に聖火リレー走者の推薦枠が回ってきたり(同級生の女子に敗れたが)開幕前から誇らしかった。
4年前のリオ五輪はサッカーを取材した。決勝。FWネイマールをオーバーエージ枠で招集したブラジルが宿敵ドイツを破った。王国が唯一、手にしていなかった金メダル。マラカナンの悲劇が歓喜に変わり、泣いていた、選手も国民も。政情不安やジカ熱など大会前の不安を金の輝きが吹き飛ばし、南米初の五輪は大団円を迎えた。次は東京か-。高揚を思い出す。やはり来夏開催してほしい。コロナ禍に終わりは見えないが、見たいものは見たい。
一方で五輪の行く末は不安だ。延期を受け、東京閉会式(21年8月8日)と冬季北京大会開会式(22年2月4日)の間隔が180日に縮まった。半年もない。東京と同一年度。冬季団体は強化予算縮小やスポンサー分散を懸念し、五輪シーズンの会場確保にも影響が出る。代表選考も東京以上に不透明で、ある団体幹部は早くも覚悟する。「北京の1年延期もあり得る」。
IOCパウンド委員も「東京が中止なら同じ地域の北京も困難」と連鎖反応を指摘した。安全は最優先。ただ、現職理事ではないとはいえ、その地域リスクを招いた人たちに簡単に言われたくない。18年平昌、東京、北京と東アジアが続いた主因は、22年招致でオスロとストックホルムに逃げられ、ミュンヘンが住民投票で敗れたからだ。巨額経費に加え“不平等”条約で開催都市に負担を強いるIOCへの嫌悪感もあった。
なのに、平気で東京と同じ追加コストの恐怖を北京に浴びせ、水面下では30年の冬季五輪を札幌に決めようとしている。来年にも。今なら国民が許さないだろうが、不信がやわらぐとすれば来夏の成功しかない。中止になれば札幌は理想を再提示できない。簡素化を極め、新たな五輪の形を示しての歓喜がなければ、もう日本には来ないだろう。
経済効果の期待よりコロナ対策費が脅威となる中、17日のIOC総会で各委員からの提言はゼロ。一方、組織委の報告には「皆さまご関心の宿泊に関する調整が残されており…」とあった。経費削減に聖域はないはずのIOCが、まだ最高級ホテルを…。長野五輪は誇りだが、札幌に2度目は諦めてほしくなる。有事の費用分担を含めIOCが変わらなければ…来夏が最後の日本開催!? 余計に見ておきたくなる。
◆木下淳(きのした・じゅん)04年入社。文化社会部、東北総局、整理部を経て東京五輪パラリンピック・スポーツ部。16年リオ五輪サッカー競技担当。18年W杯など取材後の今年1月に五輪班へ。組織委、フェンシング、フィギュアスケートなど担当。
■「母親」浅利さんの思い 横田和幸
記者が生まれ育ったのは、安藤サクラがヒロインを演じたNHK連続テレビ小説「まんぷく」の舞台になった大阪・池田市。インスタントラーメンの街で有名になり、スポーツでは、ダイハツ陸上部の拠点がある。猪名川の河川敷を走りながら名選手が育った。
その中で96年アトランタ五輪女子マラソン代表になったのは、浅利純子さん(50)。93年世界選手権で日本女子初の金メダルを獲得したレジェンドだ。現在は3児の母となり、故郷秋田・鹿角市の学校支援コーディネーターとして小学校の現場をサポートする。
先日、約20年ぶりに話す機会があった。秋田から約600キロ離れた東京五輪への思いを聞くと、真っ先に「何か、遠い世界で行われる感じで…秋田は情報が遅いもので」と笑った。記者の池田市からも東京へは約550キロ。「同じようなものです」と笑い返した。
ただ、浅利さんが気にかけていることは想像ができた。東京五輪女子マラソンの補欠に入った25歳、松田瑞生のこと。浅利さんとは、26年違いでダイハツに入社した直接の後輩だ。
「後輩というより、私は母親のような立場。自分の子どもを見る感覚です」
“腹筋女王”で有名になった松田は、1月の大阪国際女子を好タイムで優勝。五輪代表を確実視されながら、他の選考レースでライバルに追い抜かれた。3月の代表会見では、複雑な立場から大粒の涙を流した。
「もし私が彼女なら、正代表になれなかった時点で補欠ではなく、代表とは区切りをつけたい。でも1年延期が決まり、逆に待つ期間が長いほど、何が起きるか分からないのがマラソンです。今の経験は五輪だけでなく、きっと今後の人生につながると信じて、気持ちを切らさないでほしい」
補欠が決まり、五輪の延期が決まり、1年数カ月も重い十字架を背負って競技生活を続けるのは、非常に酷。記者なら投げだしたい思いに駆られるが、世界大会を知り尽くす浅利さんは違った。マイナスをプラスにする思考だ。
秋田からは遠く感じるという東京五輪だが、陸上界の後輩たちが走るマラソンのためならと、浅利さんは現地札幌へ足を運ぶ予定だという。池田市民の記者は、もちろん代表から故障者が出ることは本意ではないが、松田がわずかな可能性をつかみ、浅利さんが沿道で声援する五輪を走っていればと願う。
◆横田和幸(よこた・かずゆき)91年入社。96年アトランタ五輪でサッカー、97年世界陸上では女子マラソンを取材。浅利純子の海外遠征にも同行し、マラソンの厳しさを学ぶ。
■「閉会式」の素晴らしさ 益田一弘
五輪の閉会式が好きだ。
最終日の夜、祭りの終わりを祝う。厳かな開会式とはまるで違う。特に式典のラストで聖火が静かに消えると、大音量の音楽が流れ、人々が入り乱れて踊り始める。18年平昌五輪ではボランティアも加わった。国も、メダルの色も関係ない。各国の記者もパソコンを閉じ、観客と一緒に体を揺する。あれほど、さまざまなルーツを持つ人々が笑い合う時間を他に知らない。「五輪が世界平和に寄与する」と言われても正直ピンとこない。ただあの瞬間こそがオリンピズムだと言われれば、何となくわかる。
閉会式の解放感は、厳しい勝負の裏返しだ。一気に頂点に立つ選手がいれば、力を出せず終わる選手もいる。14年ソチ五輪でフィギュアスケート浅田真央はSP失敗からフリーで6位まで上がった。取材エリアで、興奮した韓国人記者が「ジャンプ、オールクリーン!(すべて成功)」と日本人の記者に向かって叫んだ。16年リオデジャネイロ五輪陸上男子400メートルリレーの銀メダル。記者に向かって「ジャポーン」と握手を求める多くの観客をかき分けて、メインスタンドから取材エリアまで走った。
「スポーツの力」とよく言われる。人々に感動と勇気を与える-。ただ多くのメダリストを輩出した、ある指導者はいう。「感動や勇気を与えようと思って競技していない。ただ自分たちが決めた目標を遂行する、最後までやり遂げる、それだけを考えてやってきた。その姿に誰かが何かを感じてくれればいいが、そのためにやっているわけじゃない」。同じルールの下で各国の選手が競う。勝者がいれば、もちろん、敗者もいる。それでも一心不乱にやり遂げようとする姿が、どこかで誰かの胸を打つ。
00年に入社して、仕事として五輪を見るようになった。報道は、中立を心がけるが、五輪本番だけは日本の活躍を願うことができた。
コロナ禍で1年後の東京五輪があるとは限らないが、誰かがいちずに目標に向かう姿、そして人生をかけた重圧から自由になった顔を見られることは喜びだ。
閉会式のスタイルは、64年東京五輪で自然発生した選手たちのでたらめな行進=融和がルーツだ。華美である必要はない。その素晴らしさは東京でも24年パリでも変わらないだろう。2028年でも2032年でもオリンピックの閉会式が好きだ。それをいつまでも見ていたい。
◆益田一弘(ますだ・かずひろ)00年入社。五輪は14年ソチでフィギュアスケート、16年リオで陸上、18年平昌大会でカーリングなどを取材。16年11月から五輪担当キャップとなり主に水泳を担当。