体操男子で五輪個人総合2連覇の内村航平(32=ジョイカル)が、鉄棒に種目を絞り、東京五輪出場を決めた。小野喬以来となる日本体操界2人目の4大会連続出場。両肩痛などにも悩まされ、リオ五輪後の5年間は苦しさの方が多かった。苦難の中でももがき、美しさへのこだわりを失わずにたどり着いた母国五輪の舞台。折々の言葉から、その歩みを振り返る。
◆17年10月 世界選手権(モントリオール)の個人総合予選の跳馬で左足を負傷し途中棄権。09年から続いた史上最多の連覇記録が「6」で止まる。国内外の大会を含め、連勝も「40」で止まる。
◆18年10月 世界選手権(ドーハ)では、9月に負傷した右足首の影響で個人総合を断念。団体では4種目で演技し銅、種目別鉄棒で銀を獲得。
◆19年4月 両肩痛を抱えたまま臨んだ全日本選手権の予選で、平行棒で左肩を痛めて落下した。予選落ちに終わり、「次には生きない」「笑うしかない」「(東京五輪は)夢物語」。
◆同12月 故郷の長崎で所属先のイベントに出席。「本当に『痛』の一文字」と19年を振り返る。春先から治療で打った注射は「通算100本超え」で完治はないが、「自分が五輪に出られないとはどうしても考えられない」と話す。
◆20年3月 創設した「KOHEI UCHIMURA CUP」(高崎アリーナ)がコロナ禍で中止に。
◆同6月 故障の影響から東京五輪で個人総合への出場を断念し、種目別の鉄棒に絞って出場を目指す決断を下す。
◆同7月 写真投稿サイト「インスタグラム」の国際オリンピック委員会(IOC)の公式アカウントで開かれた1年前企画で、ライブ中継に登場。「このまま6種目をやってても、五輪が現実味を帯びてこないなと。鉄棒なら確実に五輪を目指せる自信があった。痛みなく五輪にいけるほうがいいかなと思って決断しました」と説明。
◆同9月 全日本シニア選手権で1年ぶりの再起戦に臨み、鉄棒で14・200点の6位。新技「ブレトシュナイダー」では連続技につなげられず。「悔しい気持ちが8割、1割はどうしてなんだろう、もう1割はしょうがないか、という気持ちですね」。
◆同10月 11月の国際大会へ向けたPCR検査で1度は新型コロナウイルスの感染が発表されたが、「偽陽性」と判断された。
◆同11月 五輪競技ではコロナ禍で初めて日本に海外の選手を招いた国際大会に出場。閉会式でスピーチ。「できないじゃなく、どうやったらできるかをみなさんで考えて、そういう方向に変えてほしいなと思います。でも、これは非常に大変なことであるのは承知の上で言っているのですが、国民のみなさんとアスリートが同じ気持ちでないと大会はできないと思う。なんとかできるやり方は必ずあると思う。どうかできないとは思わないでほしいなと思います」。
◆同12月 全日本選手権兼全日本種目別選手権の予選、決勝と「ブレトシュナイダー」に成功。決勝では15・700点で優勝。19年世界選手権優勝者の得点(14・900点)を大きく上回る。「鉄棒に絞って3戦目になり、ようやく鉄棒に合わせる能力が高まってきた」。
◆21年1月 プロ転向した後の17年3月から所属契約を結んでいたたリンガーハットとの契約を終了。コロナ禍による業績悪化の影響だった。SNSで「プロ転向してから今までの4年間サポートしていただき、本当に感謝しています。ありがとうございました」とつづった。
◆同3月 自動車販売業などを行う「ジョイカル」と3年間の所属契約を結んだ。「所属先がなくなって、最初はどうなるかと思いましたが、みなさんにいい報告ができて良かった。どの業界の人ももすごく大変な思いをしている中で、感謝しています」。
◆同4月 東京五輪国内選考会の初戦、全日本選手権での2回の演技。高得点をそろえる。「種目(鉄棒)から声が聞こえているかのような境地にはいけていると思う」。
◆同5月 選考会第2戦のNHK杯でで15・333点をマーク。「自分が目指していたものとはちょっと違ったんですけど、ミスなくやれたところは良かったかな」。
◆同6月 全日本種目別選手権で日本協会の選考基準を満たし、東京五輪代表に選出。


