鈴木美重子さん
鈴木美重子さん

雨上がりの1番ホールから次々と出て行く選手を、特別な思いで見送る人がいた。3月10日、沖縄・琉球ゴルフ倶楽部で開催されたダイキン・オーキッド・レディース最終日。19年の国内女子ツアー開幕戦が、鈴木美重子さんにとっての最後の試合になった。81年日本女子プロ選手権で優勝。97年にツアープロとして一区切りを付けてからは、日本女子プロゴルフ協会(LPGA)専務理事と広報委員長を兼務した。3月18日付で定年退職。“女子プロの母”と呼ばれる人だった。

「選手の苦労や、精神的な辛さはよく分かるんです。だから、勝った時は一緒に泣いて、負けた時も一緒に泣いた。有意義な45年間でした。やり残したことは、全くないです」

学生時代は、芸能人になるのが夢だった。中学、高校は美空ひばり、吉永小百合らを輩出した東京の精華学園に通い、劇団ひまわりに在籍した。歌や踊りが得意で、今でも宴会になれば美声を披露する。父・正伊さん(享年74)はゴルフ好きが高じて、東京・石神井に打ちっぱなしの練習場を経営。高校を卒業してすぐにそこを手伝うようになると、負けず嫌いの心に火が付き「やるのならプロを目指そう」と本気になった。

練習場を手伝った少ない小遣いで、早朝に河川敷コースに通って腕を磨いた。練習場で打つのは1日1000球。握力がなくなり「手が開かなくなるほど練習をした」という。初めてクラブを握った日から、3年でプロテストに合格。10円玉を握りしめて公衆電話を探し、父に合格を伝えると「良かったな~」と喜んでくれたのを覚えている。同期に岡本綾子がいる「華の49年組」だった。

つい数年前まで芸能界に憧れていたからか、化粧にピアス、爪にはマニキュアを塗ってツアーを戦った。やっかみもあったのだろうか。他のプロから白い目で見られ「もっと地味にしなさい」と注意をされた。それでも、決してオシャレをすることを止めなかった。

「人間関係は厳しかった。女の世界ですから。『すげー、生意気だ』と言われてね。でも、ゴルフは見せるスポーツなんです。女性らしく、強い人が、魅力があるプロだという思いがあったから。マニキュアに化粧をしてコースに出たプロは、私が最初じゃないかな。短パンも、私しかいなかった」

努力は実を結び、現在の加賀電子カップにあたる新人戦で優勝。賞金は40万円とテレビだった。そのうちの5万円を、感謝を込めていつも黙って見守ってくれていた父にそっと渡した。

鈴木さんがプロデビューした75年は、プロ野球界では阪神の田淵幸一が本塁打王で、巨人の王貞治が5年連続で打点王になった年だった。街に出れば、至るところでダウン・タウン・ブギウギ・バンドのヒット曲「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」が流れていた。華やかな世界への憧れは、どこまでも強く「賞金を稼ぎまくって、自分の車を買う」。そんな目標があった。23歳で真っ黄色の「マスタング マッハ1」を購入。アメ車を乗り回しながら、さらなる野心を高めた。

派手な外見とは違って、プロゴルフ界は苦労も多かった。当時はマネジャーや、親さえもツアーに帯同することはなかった。移動やもちろん、宿の手配も民宿に電話をかけて探した。クラブの手入れも、自分でやるのは当然のことだった。

「何が大変って、今みたいに宅配便はなかったから。ゴルフバッグと、大きなボストンバッグを担いで、東京駅の階段を上っていました。今みたいに親が来ることもない。みんな1人でツアーを回って、夜になれば女子プロ同士でご飯を食べた」

常に全力で戦った。スコアを乱すと「悔しくてウエッジで自分の足をたたいていた」という。それが40歳を過ぎた頃に、ふと心に異変を感じた。「ボギーを出しても、悔しくなくなっていた」。97年4月に、愛媛・道後ゴルフ倶楽部で開かれた健勝苑レディスが、ツアープロとしての最後の試合になった。

その後は広報委員長として、若い世代の女子プロの“教育係”を15年間こなした。成績が出ずに、途方に暮れる選手。あるいは、わずか1打で優勝を逃し、泣き崩れる選手でさえも、必ず報道陣の前に連れてきては、取材対応をさせた。表に出るのを嫌がり、ロッカー室に閉じこもった選手もいたという。そんな時は、決まってこう説き伏せた。

「あんたはプロなんだよ。アマチュアじゃ、ないんだよ。どんだけ泣いてもいい。涙が止まったら、自分の言葉で話しなさい」

手を焼いた選手を聞くと、笑いながらこう言った。

「そんなの、いっぱいいるわよ。いっぱい、いすぎて分かんない。さくらちゃん(横峯)も、キンクミ(金田久美子)も、鈴木愛もそう。でもね、一緒に泣くのよ。彼女たちの苦労は、私は分かっているから」

ゴルフとともに全力で歩んできた時間は、もうすぐ半世紀近くになる。ダイキン・オーキッド・レディースの開幕前に全選手が参加したミーティングでは、プレーヤーズ委員長の有村智恵からエルメスのスカーフが贈られた。報道陣との絆も深く、大会中に開かれた送別会では、ベテラン記者が涙した。開幕戦を制した比嘉真美子は、優勝会見で思い出をこう振り返った。

「美重子さんの力なしでは、ここまで来ることはできなかったです。あらためて、感謝の気持ちを伝えたい」

1番ホールの横にあるテント小屋の椅子に座り、鈴木さんは私の取材に応じてくれた。97年を最後にツアープロとして区切りをつけたこと、そして今回ツアーを離れることを、こんな表現で語ってくれた。

「引退じゃないわよ。ゴルフを引退するわけじゃ、ないんだから。まあ、専務理事は引退かも知れないけどね。でも定年退職です」

ゴルフを愛し、選手を愛し、そして選手から愛された。そのゴルフ人生は、まだ続く。【益子浩一】(ニッカンスポーツ・コム/ゴルフコラム「ピッチマーク」)

ティーショットを放つ現役時代の鈴木美重子さん
ティーショットを放つ現役時代の鈴木美重子さん