1972年ミュンヘン五輪柔道男子中量級金メダリストの関根忍(せきね・しのぶ)さんが18日午前4時9分、前立腺がんのため東京文京区の順天堂医院で死去した。

75歳。葬儀・告別式は26日午前10時から東京都台東区西浅草1の5の5、東本願寺慈光殿で。喪主は妻通子(みちこ)さん。

「恥ずかしいメダルなんですよ」と、関根さんは言った。長年金メダリストを取材して、初めて聞いた言葉だった。コラムの取材でゆっくり話をしたのは6年前。最初は照れ隠しかと思ったが、話しを聞いているうちに40年前の五輪柔道が見えてきた。

関根さんは「目標は全日本優勝しかなかった」と言った。そして「オリンピックはおまけ」とも。64年東京大会で実施された柔道は68年メキシコシティ大会では非実施。当時の柔道家が目指すのは、体重無差別の全日本選手権だけだった。同郷(茨城県)で中大でも一緒だった同じ中量級(80キロ以下)のライバル岡野功氏は67、69年と2度全日本をとっていた。「自分も」という思いは強かった。

72年4月の全日本で優勝した後に知ったのが同年のミュンヘン五輪での柔道実施だった。「全日本王者が出ないわけにはいかない」と代表には選ばれたが、それからが大変。これまで考えなかった体重を気にする必要があった。

ケガで練習ができず、五輪前の体重は85キロ。「当時は減量も適当だった」。落とし過ぎて75キロになり、力が入らなかった。過去負けたことがない韓国選手に5回戦で敗れ、敗者復活戦を勝ち上がって決勝で再戦(当時は1度負けても優勝できた)。判定で下し、なんとか面目を保った。

「優勝してもコーチ陣は不満顔だし、応援団からはやじ。『全日本王者のくせに』ですよ。帰国後の記者会見で質問されるのは男子バレー、水泳、体操…。柔道選手は隅で立っていただけでした」と振り返った。口にした五輪の感想は「もうコリゴリ」。金メダルを手にしながら「コリゴリ」と言ったのは、たぶん関根さんだけだろう。

職場(警視庁)でも金メダルを祝ってくれたのは1日だけ。その後は、金メダル獲得を話題にすることもなかった。メダルも「どこかに放ってありますよ」と素っ気なかった。

だからこそ、金メダルに満足せず、謙虚に柔道と向き合った。指導者として勝つだけではなく、勝ち方にもこだわった。全日本柔道連盟理事や評議員など要職を歴任し、柔道界の発展に尽くした。「僕は大会を終えて胸を張れなかった。五輪は全日本の『おまけ』だったし、満足のいく結果ではなかったから。だから、今の選手には胸を張って大会を終えてほしい」。

東京都柔道連盟会長として、2度目の東京五輪を楽しみにしていた。80年モスクワ、84年ロサンゼルス五輪の日本代表コーチ。指導した選手の多くが、指導者として活躍している。その目で東京五輪を見ることはなかったが、関根さんは天国から「胸を張って」戦う選手たちを見守ってくれるはずだ。きっと。【荻島弘一】