ラグビーの19年ワールドカップ(W杯)日本大会開幕まで1年を切った。日本代表が史上初の8強入りを目指すビッグイベントに向け、日刊スポーツでは「ラグビーW杯がやってくる」と題し、毎週水曜日付で連載する。第1回のテーマは、開催都市の1つに選ばれた岩手県釜石市。70年代後半から新日鉄釜石が日本選手権7連覇を果たし、11年3月の東日本大震災で甚大な被害を受けたラグビーの町。W杯を復興のシンボルに据え、地元での開催にこぎつけた、人口3万4000人の「小さな町の大きな挑戦」に迫った。


18年8月、ヤマハ発動機とのメモリアルマッチ後、大漁旗を振り釜石シーウェイブスをたたえる観衆
18年8月、ヤマハ発動機とのメモリアルマッチ後、大漁旗を振り釜石シーウェイブスをたたえる観衆

2015年1月12日。19年W杯日本大会の統括責任者アラン・ギルピン氏ら、ワールドラグビー(WR)関係者3人による国内立候補地の視察が行われた、その日。かつて、満員の国立競技場で「北の鉄人」の背中を押した大漁旗が、震災後の釜石の思いを代弁するかのように、強く揺れていた。

新日鉄釜石を引き継いだクラブチーム、釜石シーウェイブスの元事務局長で、同市職員としてW杯誘致に奔走した増田久士さん(55)は、「このアピールですべてが決まる」と思いを固めていた。震災の影響でホテルも鉄道も満足にない。不利は承知の上。だが、どうしても伝えたい思いがあった。


完成した新スタジアムについて説明する釜石市ラグビーW杯2019推進本部事務局の増田久士さん
完成した新スタジアムについて説明する釜石市ラグビーW杯2019推進本部事務局の増田久士さん

震災から4年がたっても、市に背伸びをする余裕などどこにもなかった。昼食は地元の洋食店が作ったハムサンド、隣町の100円ショップで買ってきたノートとペンに市のシールを貼ったものを手みやげに仕立てた。スタジアムの建設予定地は残土が山積みとなり、見渡せば、津波の恐ろしさを物語るように、建物の骨組みだけが目に入った。そんな状況で、WR関係者の心を動かしたもの。それこそが、「鉄と魚とラグビーの町」の魂ともいえる、大漁旗だった。

地元で生まれ育った子供たちが、130メートル×80メートルの四隅に分かれ、懸命に旗を振る。不思議そうな表情を浮かべるギルピン氏に、増田さんは、影も形もないスタジアムを思い浮かべながら説明した。「旗の内側がピッチです」。3人が釜石を離れる時刻になっても、旗は揺れ続けていた。「あの子たちは、いつまで振っているんですか?」。ギルピン氏の問いかけに、増田さんは冗談交じりに言った。「ここでやると言ってくれるまでです」。

震災を経験した子供たち、震災から立ち上がろうとしている人々が、W杯を楽しみに待っている-。釜石の思いは、届いた。「W杯が、ラグビーが、この地の再生、再建に貢献できる」(ギルピン氏)。それはWRにとっても大きなチャレンジであり、十分な開催意義だった。

W杯を釜石で-。無謀ともいえる挑戦は、ラグビーのスクラムのように、1人1人の力が結集することで形になった。市内だけで1000人以上が犠牲になった東日本大震災。その翌月、都内で元日本代表の松尾雄治氏、石山二郎氏ら釜石OBが集まり、復興支援団体「スクラム釜石」が結成された。「俺たちにはラグビーしかない」-。8年後の2019年、既に開催が決まっていたW杯日本大会の釜石での試合実現に向け、最初の渦が出来た。

だが、市内の実情はそんな温度とはほど遠いものだった。山と海に囲まれた穏やかな町は、辺り一面ががれきで覆われ、ハエが飛び交った。生活さえままならない中で耳にする「W杯」という言葉に、怒りをあらわにする人も少なくなかった。「まずは命だべ」「そんなお金があるなら、市民のために使え」。当然ながら、市も立候補に踏み切れなかった。

頓挫してもおかしくない状況を変えたのは、逆境でも下を向かない、ラグビーの力を信じる人たちの声だった。開催を目指す人たちが、小さな飲み会を開く度に、「W杯やろうや」と夢を語り合った。点と点がつながるように、12年9月には新日鉄釜石と神戸製鋼のOBによるチャリティーマッチが都内で開催され、招致を後押しする声は県外からも高まった。14年7月、釜石市は立候補を正式に表明。官民が歩調を合わせるように、「小さな町の大きな挑戦」が始まった。

18年7月30日、かつて小中学校が並び立ち、生徒600人が手を取りあって津波から逃げた海沿いの一角に、「釜石鵜住居復興スタジアム」が完成した。震災から7年。走り続けてきた増田さんは、長い道のりを振り返るように言った。「ただ、やろうって。震災直後、何もなくなった時に、W杯呼べるかもよって。ひらめきなんて何もない。人の気持ちとか、つながりだけでここまできた。震災前にはW杯なんて誰1人言っていなかった。だからこそ、W杯で前を向けたっていう人がいると信じたい」。


釜石市の試合会場・鵜住居復興スタジアムの周辺地図
釜石市の試合会場・鵜住居復興スタジアムの周辺地図

1年後、釜石ではフィジー-ウルグアイ、ナミビア-敗者復活戦勝者の2試合が行われる。今春、釜石の代表者が、フィジー代表のもとに大漁旗を届けた。そして、その大漁旗を持って釜石にやってくるフィジー代表を、大漁旗が揺れる満員のスタジアムで出迎えることを約束した。大漁で帰港する際に船に掲げられ、晴れの舞台の縁起ものとしても使われる大漁旗は、富来旗(ふらいき)の呼び名も持つ。震災で悲しみに沈んだ釜石に、1年後、熱狂のラグビーW杯がやってくる。【奥山将志】


震災直後に釜石を訪れ、スタジアムのオープニングマッチでも試合をしたヤマハ発動機の清宮克幸監督 2年前更地だった場所に素晴らしいスタジアムができた。釜石は日本中のラグビーファンが愛する街だ。

ヤマハ発動機の元日本代表FB五郎丸歩 いろいろなことがあって、W杯を迎えることができる。ここが成功しない限り、W杯を日本で開催する意味はない。

野田武則釜石市長 これからも釜石はラグビーの街、聖地であり続けたい。夢は必ずかなうということを実感している。釜石は小さな町だが、夢と希望は大きい。他の被災地のためにも、W杯を成功させたい。


釜石市で開催される試合の日程
釜石市で開催される試合の日程

◆W杯開催都市の誘致経過 南アフリカ、イタリア、日本が開催を目指した末、09年に19年大会の日本開催が決定。14年に15自治体が開催都市に立候補した。15年3月に東京都、横浜市、釜石市などの12会場に決定。大会組織委は「試合運営機能、運営上の都市基盤、地理的条件と会場の規模のバランス、開催意義やラグビーレガシーそしてラグビーの盛り上がりを総合的に勘案した」と説明した。


19年ラグビーワールドカップ開催地
19年ラグビーワールドカップ開催地

◆新日鉄釜石ラグビー部 59年に富士鉄釜石ラグビー部として結成、70年に社名変更で新日鉄釜石ラグビー部に。76年に全国社会人を2度目の制覇、日本選手権では早大を下し初優勝。ミスターラグビー松尾雄治主将らを擁し、78年から84年まで全国社会人、日本選手権で当時最多の7連覇を達成。その強さから「北の鉄人」と呼ばれ一時代を築いた。00年に成績低迷と会社のスポーツ事業見直しから廃部。01年にクラブチーム「釜石シーウェイブス」として生まれ変わった。