ビートたけし(67)が1964年(昭39)に開催された前回の東京五輪の思い出を語ります。

 都立足立高に通うたけしは「観客役」にかり出された。「スタンド埋めないと、かっこ悪いから都立高は強制的に行かされた」。 駒沢公園でホッケー決勝のインド対パキスタン戦も見た。「ルールも分からず、客もいないので高校生が全部埋めた。裏の方じゃ、カツアゲとたばこと殴り合い。てめえコノヤローって」。

 沿道を走る聖火リレーでも“活躍”した。足立高の陸上部も聖火ランナーを務めた。

「足立区なんて沿道に人がいない。しょうがないから、日の丸を持たされて並ばされた。面白くないから、走ってきたやつに石投げたら怒られた」。

 五輪前のインフラ整備では痛い目にあった。

「父ちゃんが飲み屋で『あんたのとこ、環状7号線に入るよ。補償金が相当入るぜ』って聞いて、喜んで酒飲んで金を全部使っちゃった。実際に通ったのは家の2メートル前」。

 補償金はなかった。環7が通った知人の家は多額の補償金を得て「ラブホテル、ガソリンスタンド、レストランをやるわで、すごかった」。

 五輪はおもにテレビ観戦した。「陸上100メートルの飯島(秀雄)は野球選手になった。ハードルの依田郁子はいつもサロメチールを塗ってた。体操の遠藤幸雄は総合優勝だったけど今見たら技のレベルが低くて笑っちゃうだろうな」。陸上でメダルを獲得したマラソンも鮮明に覚えている。「2位で国立に来た円谷幸吉。負けると思ったよ、ヘロヘロだったもんな。(はだしで有名だった)アベベがすごかった。ゴールした後も平気で走ってたもん。でも靴履いていたから、話が違うぞって」。

(2014年7月23日付本紙掲載)

【注】年齢、記録などは本紙掲載時。