伝説のスプリンターがいた。「暁の超特急」吉岡隆徳は、1932年ロサンゼルス五輪男子100メートルで6位に入賞した。さんぜんと輝く同種目日本唯一の五輪ファイナリストだ。36年ベルリン五輪の失意を乗り越えて目指した40年東京五輪は、戦火によって幻と消えた。後継者に夢を託した64年東京五輪も決勝進出者は出なかった。自分に続くファイナリスト誕生を願った吉岡の夢は82年を経た今も、持ち越されたままだ。 

 <日本人唯一の陸上100メートル決勝進出>

 「暁の超特急」は84年5月5日、静かにその歩みを止めた。32年ロサンゼルス五輪で決勝のスタートラインに立ってから52年。がんによる闘病生活を終えて、74歳で息を引き取った。臨終の場に立ち会った吉岡のおいである春日貴紘(たかひろ)氏(68)は、希代のスプリンターの心残りを聞いている。

 「一体わしは何だったのか。五輪で決勝に出たのは何年前の話か。一代をかけて、後輩を指導して何十年たっても、自分の記録がまだ破られん。自分の教え子が自分を飛び越えてくれるから、指導者をやった意味がある。それでこそ陸上に一生をささげて、指導してきた意味がある」

 1909年6月20日、島根県出雲市湖陵町。吉岡は1100年以上も続く彌久賀(みくが)神社の宮司である「春日家」の四男として生まれた。小学校1年の時にかけっこで1着。賞品で鉛筆をもらったことがうれしくて走りに熱中した。あまりの速さに仲間から「馬」と呼ばれた。小学校卒業を機に、同市内の神職「吉岡家」の養子となった。

 陸上を志し、杵築中学校(現大社高校)-島根師範学校(現島根大教育学部)-東京高等師範学校(現筑波大)と進学。23歳で最初の五輪に臨んだ。準決勝1組で3位に入り、当時6人のファイナリストになった。決勝でも前半は先頭を走った。優勝したエディ・トーラン(米国)の愛称「ミッドナイト・エクスプレス(深夜の超特急)」にちなんでつけられた「暁の超特急」はあまりにも有名だ。

<最速スタート>

 走りの特長は、世界最速を誇ったスタートダッシュ。身長165センチは当時でも小柄だった。春日氏によれば、足の裏に土踏まずの部分がなく、走るとぺちゃぺちゃと音が響いたといい「決してスマートではなかった」。努力と研究を重ねて編み出したのが、爆発的なスタートだった。両足のつま先を内側に向けて「ハ」の字にして、左、右、左と3歩踏み出す。前傾姿勢をとり、体が前に倒れる直前に足を出して、推進力に変える。「足の回転を速くすれば大丈夫」というのが吉岡の説だが、並大抵の筋力では体を支えられない。

 故郷の湖陵総合公園には吉岡の銅像がある。スタートの飛び出しをかたどったものだ。2003年の作製時には現役時代の写真を基にして、島根大の陸上部員がモデルを務めた。しかし体勢が低すぎて、大学生部員の筋力では姿勢をキープできなかった。結局、鉄骨を組んで上からワイヤで部員の体をつり上げて、やっと吉岡のスタート姿勢を再現したほどだった。

<失意から投身>

 6位入賞に、国民の期待は高まった。ベルリン五輪前年の35年6月から8月の間に当時の世界タイ記録10秒3を3度マーク。しかしメダルを狙った2度目の五輪は重圧から2次予選で敗退。失意の吉岡は、日本への帰路、マラッカ海峡に身を投げようとして、同僚の佐々木吉蔵に止められている。そんな逆境を乗り越えて、3度目となる40年東京五輪を目指した。しかし日中戦争の激化もあってアジア初の五輪開催は流れた。

 戦火に消えた夢は、後進に託した。57年にリッカーミシン陸上部監督に就任。早大の飯島秀雄を鍛えて64年東京五輪を目指した。両手を大きく広げて低い前傾姿勢をとるロケットスタートを伝授した。スタート練習だけを何時間も繰り返した。両手の指と頭部をつないで脳波を調べてどの指が最も反応が早いか、研究した。自分が走れなかった東京の空の下で、教え子が決勝を走る夢を描いた。だが飯島は準決勝で敗退した。

 晩年の吉岡は、故郷で子供たちに陸上教室を開いた。100人以上の「気をつけ」の姿勢をとった子供を見て、筋肉の付き方だけで、足が速い子を選ぶことができた。指導では「回れ右、止まれ、走れ」と号令をかけて、反応を見るだけで、1人1人の素質を見抜いた。子供たちの反応が悪い時は指導者に向けて「回れ右でも何でも、自由自在にできないといけない。バスケットボールでもサッカーでも、いろんな動きをする。陸上だけが止まって走るだけでどうしていいスピードが出るか。そんな指導が子供の伸びる力をつみ取っている。陸上界がダメになる」と怒ったという。春日氏は「普通は自分の記録が破られるのは嫌なものだが、吉岡は違った。誰かが来るのを待っていた。誰かに来てほしかった」。

<色紙に「努力」>

 吉岡は色紙に必ず「努力」と書いた。その理由は「私は走りに向いた足ではなかった。私はこれ以外にない」。夏の熱くなった砂浜をはだしで「火渡り」するように走ってピッチを速くした。ロサンゼルス五輪前には世界最強の米国短距離陣の練習に1人で飛び入り参加。頭にはちまきを巻いた小柄な日本人が大男たちの間から一気に飛び出していく姿に人々は熱狂した。

 吉岡の決勝進出以降、2012年ロンドンの山県まで五輪の準決勝に5人で合計6度進出したが、決勝には届いていない。「暁の超特急」が見た夢は、もはやかなわぬ夢なのか-。日本2人目の五輪ファイナリスト誕生は、日本陸上界の悲願でもある。【益田一弘】

 ◆吉岡隆徳(よしおか・たかよし)1909年(明42)6月20日、島根県生まれ。西浜尋常小学校で競技を始める。杵築中学校―島根師範学校―東京高等師範学校に進学。32年ロサンゼルス五輪男子100メートルで決勝に進出。10秒8で6位入賞。35年に10秒3の世界タイ記録を3度マーク。五輪決勝進出、世界記録保持はともに日本で唯一。36年ベルリン五輪は2次予選敗退。指導者として64年東京五輪で女子80メートル障害5位の依田郁子、飯島秀雄らを育てた。東京女子体育大教授なども務めて78年に紫綬褒章。84年5月に74歳で死去。

(2014年11月19日付本紙掲載)

【注】年齢、記録などは本紙掲載時。