2020年は日本がボイコットした80年モスクワ五輪から40年の節目でもある。日刊スポーツでは2回にわたり、モスクワ大会の代表選手に焦点を当てて特集する。日本スポーツ学会ではこのほど「幻の日本代表」へのアンケートを実施。今月10日に都内で当時の代表選手や、自身も馬術代表だった日本オリンピック委員会(JOC)の竹田恒和会長(69)らを招いてシンポジウムを開催した。第1回は同学会の協力を得て、五輪出場機会を奪われた元選手たちの証言をもとに、ボイコットの影響から五輪の存在意義、20年東京大会の果たすべき役割について考えた。【取材・構成 首藤正徳】

元女子体操日本代表。左から吉川智恵子氏、赤羽綾子氏、松本由子氏、野沢咲子氏、加納弥生氏、日向由佳氏、内田桂氏(姓は代表当時)
元女子体操日本代表。左から吉川智恵子氏、赤羽綾子氏、松本由子氏、野沢咲子氏、加納弥生氏、日向由佳氏、内田桂氏(姓は代表当時)

 五輪代表なのに、五輪に出場していない。自分は果たしてオリンピアンなのか。「幻の日本代表」の多くが37年たった今も葛藤と向き合っている。今回のアンケートでも「五輪代表といっても必ず〝幻〟がつくので堂々と代表と言っていいのか? 今でも疑問に思う」(水泳女子)などの意見が寄せられた。

 モスクワ代表でその後、五輪3大会に出場したレスリング銀メダリストの太田章氏(60)は「出場した3度の五輪で通し番号の付いた参加証をもらったが、モスクワのものはない。残念だがIOCはオリンピアンとは認定していない」と話す。JOCは五輪代表の認定証を出し、オリンピアンズ協会会員として認めているが、選手名簿はIOCに提出していないという。

 人生をかけた4年に1度の夢の舞台を目前で奪われた憤り、悔しさとともに、この中途半端な立場が、代表選手たちの心に長い間、風波を立て続けている。体操女子代表だった笹田(旧姓加納)弥生さん(54)は「IOCが認めていないと聞いて、やっぱり自分はオリンピアンではなかったのかと、あらためてショックを受けた」と明かした。

 80年1月、当時のソ連軍のアフガニスタン侵攻に、カーター米大統領がモスクワ五輪ボイコットの可能性を表明。同4月に米国が不参加を決定すると、JOCも政府の強い圧力に屈して不参加を決めた。アンケートでは「スポーツ界のことを考えて決断したのか。外交問題としてのみの決断であったとしか思えない」(バレーボール女子)など、政治主導の決定に怒りの声がいまだ根強かった。

 76年モントリオール大会に続く連覇を目指していたレスリング代表の高田裕司氏(63)は「あの当時は国のために日の丸を揚げるという思いが強かったが、ボイコットでそれがばかばかしくなった。実は次のロサンゼルス大会で金メダルを取れたら、首から外してぶん投げようと思っていた。銅メダルだったからしなかったけど」と、当時の国に対する怒りを回想した。

 同じ米国と同盟国の英国は、サッチャー首相の圧力にも圧倒的多数で参加を決定した。一方で80年前後の日本はまだスポーツの認知度、成熟度が低かった。世論調査でボイコット賛成が40%を超えた新聞もあった。決定前、涙ながらに参加を訴える姿がテレビで映し出された高田氏のもとには「男のくせに何泣いているんだ」との苦情電話が殺到した。参加票を投じた自転車代表監督だった岡本雄作氏(82)は「右翼から拡声器で名前を呼ばれてずいぶん脅されました」と振り返った。

 カーター米大統領はボイコット決定後に代表選手をホワイトハウスに招待して慰労するとともに、経緯を説明したという。日本では認定証と銀のバッジと名簿が選手に配布されただけだった。「政府、協会すべてがボイコット後の選手に対して何のケアもなく、見捨てられた感じがした」(体操女子)とのアンケート回答は、代表選手たちの心境を代弁したものでもある。

モスクワ五輪不参加で涙のレスリング高田
モスクワ五輪不参加で涙のレスリング高田

 ボイコットは多くの代表選手の競技生活に突然、幕を引いた。モスクワが3度目の五輪だったJOCの竹田会長は「決定は試合を転戦していたドイツで聞きました。競技人生の集大成という目標がなくなったわけですから引退を決めました」と話す。4年後の五輪代表の保証はない。「22歳の私には4年後が果てしなく遠く思え引退。体操界からも去る。その悔しさは今も消えることはない」(体操女子)との回答もあった。

 実はモスクワ五輪代表には64年東京大会を見て五輪を目指した選手が多い。竹田会長も「高校2年の時に東京大会の馬術を見て、絶対にこの舞台にチャレンジするという気持ちを持った」と振り返る。自国開催の熱の大きさを知っているからこそ、20年大会への思い入れも強い。笹田さんは「13年に東京開催が決定したときから、モスクワ代表で何かできないかと感じていた」と打ち明けた。

 アンケートの「20年東京大会に望むこと」の質問には、「幻の代表」ならではの回答が複数寄せられた。「モスクワ代表の開会式への参加。もしくは見学等の機会があってほしい」(水泳男子)「モスクワ代表に聖火リレー等に参加できる企画があればいい」(ボクシング男子)。太田氏が言う。「実はモスクワの代表はおそろいのユニホームを持っていない。五輪マークのついたものがない。聖火ランナーはユニホームがもらえます。ぜひ聖火ランナーを走ってほしい」。

 「20年大会後に期待すること」の質問に、次のような回答があった。「スポーツを『愛する心』『親しむ心』『必要であると感じる心』が広く国民に残ること」(体操男子)。それが真に実現すればボイコットという選択肢もなくなる。五輪を奪われた心の傷が消えることはない。しかし、20年東京五輪は傷を癒やす大会になる可能性を秘めている。

 ◆モスクワ五輪 1980年7月19日~8月3日にモスクワで開催された。開会式の入場行進に参加した国と地域は81で、前回76年モントリオール大会の88を下回った(当時のIOC加盟国・地域は145)。参加選手数も前回の6026人から5217人に激減。米国、日本、西ドイツなど50カ国近くが不参加。英国など参加した西側諸国の17カ国・地域が国旗ではなく、五輪旗やNOC(国内オリンピック委員会)旗を使用した。21競技204種目が実施され、ソ連が80個(1位)、東ドイツが47個(2位)の金メダルを獲得し、2カ国で全体の60%を占めた。


<82%「すべきでなかった」>

 アンケートは全18競技178選手のうち逝去者をのぞく連絡先の判明した92人に実施し、61人より回答を得た。調査の中心となった笹田さんは「モスクワの代表の方々がボイコットを乗り越えて、その後の人生をどう歩んだのか個人的にも気になっていた」と言う。

 集計の結果、50人(82%)が「ボイコットすべきではなかった」と回答。35人(57%)が「ボイコットはその後のスポーツ界に悪影響を及ぼした」と答えた。当時の代表選手の平均年齢は23・8歳。「ボイコットが自身に影響を与えたか」との問いには、「影響があった」(25人)または「大変ダメージを受けた」(26人)と回答した元選手が計51人で実に84%を占めた。

元代表にアンケート
元代表にアンケート

 ◆日本スポーツ学会 1998年(平10)1月、競技団体の垣根を越えて市民レベルでスポーツを文化として考えようと設立された。会員は競技団体、元選手、大学教授、企業、メディアの関係者ら幅広く、300人を超える。年に5回前後、ゲストを招いて「スポーツを語り合う会」を実施。10年に「日本スポーツ学会大賞」を創設し、スポーツの発展に貢献した人を毎年表彰している。04年アテネ五輪では現地紙に「オリンピック休戦」の意見広告を1ページ掲載した。問い合わせはEメールでsports.gakkai@gmail.comまで。