1964年(昭39)10月10日午後3時すぎ、東京の紺碧(こんぺき)の空に、巨大な五輪マークが描かれた。戦後復興の確かな歩みを、世界中に印象づけた伝説だが、航空自衛隊のアクロバット飛行チーム、ブルーインパルスは練習では1度も完全に成功したことがなかった。今も健在の隊員2人の証言を交え、奇跡に挑んだ男たちのドラマを追った。(敬称略)【久保勇人、大上悟】

64年10月、東京五輪の開会式で国立競技場の上空にブルーインパルスが描いた五輪マーク(共同)
64年10月、東京五輪の開会式で国立競技場の上空にブルーインパルスが描いた五輪マーク(共同)

64年10月10日午後3時ごろ。神奈川・江の島の上空約3000メートル。雲1つない青空に、白地に青いラインも鮮やかなF-86F戦闘機が5機、浮かんでいた。「ブルーワン」こと1番機、33歳の松下治英隊長率いるブルーインパルス。離れて予備機もいる。5機は本番と同じ時速約460キロで旋回していた。ミッションは「午後3時10分20秒、赤坂見附上空に入り、五輪マークを描け」。チームは午後2時半に埼玉・入間基地を離陸し、まず江の島に向かった。

28歳だった「ブルースリー」3番機の西村克重はこう振り返る。「江の島の待機はとにかく長かったです」。27歳の「ブルーファイブ」5番機、藤縄忠は「我々は前との間隔をきちっと取って飛ぶことだけに集中してましたが、リーダーはいつ江の島を出ていくかを考えていました」。

演出は選手宣誓の後、ハトが放たれ「君が代」斉唱の直後に五輪を描き始める予定だった。秒単位のタイミングが要求された。ところが地上から、選手団の入場行進が遅れだしたという報告が入った。1分、2分、3分…予定が狂っていく。世界中に衛星生中継される式典。失敗は許されない。しかし松下は慌てなかった。NHKラジオの中継を聴きながら、7万5000人で埋まる国立競技場へ、いつ飛び出していくか、タイミングを計算し始めた。

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世界で誰もやったことがないプロジェクトが本格化したのは、約1年半前の63年春ごろだった。航空自衛隊の父・源田実らが、静岡・浜松基地を拠点にしていたチームの起用を計画したという。「最初は編隊で煙をひいて飛べばいいという感じ。おもしろくないなあと」(藤縄)。その後「五輪マークを描く。ロイヤルボックスから全景が見えるように」というミッションがきた。

赤坂見附の高度3000メートル、輪の直径約1800メートル、各機の間隔を約2100メートルにすれば、輪が少しずつ重なり、ロイヤルボックスから仰角70度くらいで全容が見えるという設計になった。隊員は「最初は大したことないと話していたけど、難しかった。各自の輪はできても、重なり方が少しでも重なりすぎてもダメ。きれいな五輪はできなかった」(藤縄)。

GPSもなく、F-86Fのレーダーは射撃用で500メートルくらいしか測れなかった。「互いの間隔は目視で測るしかない。約2000メートル先の全長11メートルくらいの機体は点にしか見えないのです」(藤縄)。後輩の現隊長、福田哲雄も難易度をこう指摘する。「天候や体調によって見え方に違いが生じる中、豆粒ぐらいの航空機に対して正しい位置を保持することは、かなり難しかったのではないかと思います。創意工夫で成し遂げられたのではないでしょうか」。

当時、隊員の本業は指導教官だった。練習中は秘密も守らなければならず、63年秋に始まった練習は限られた。週1~2回、仕事の合間に遠州灘の上空で、時に煙を点線状に出しながら練習した。「分かってしまうので、煙もちょろちょろ。あれは何をやってるんだと笑われたこともありました」(西村)。練習は1年間で50~60回しかできず、直前の関係者へのお披露目でも、黒の煙がうまく出ず不完全だった。1度も完全に成功しないまま、本番前日を迎えた。「これじゃダメだと自分たちがよく分かっていました。ただ、やらなきゃいけないという気持ちでした」(西村)。

チームは10月9日昼ごろ浜松を出発し、入間入り。車で新橋のホテルに移動した。その日は深夜まで、足元が泥だらけになるほどの土砂降りだった。隊員は六本木で夕食をとりながら「明日はダメだろうなあと思ってました」(藤縄)。そして、当日朝。隊員たちはベッドの中で松下からの電話で起こされた。「晴れてるぞ!」。「びっくりしました。真っ青。チリとか全部流されて、空気もきれいだった」(藤縄)。車で入間基地に急いだ。「飛行前のブリーフィングもほとんどなく、さあ、行こう、ぐらいでした。みんな、以心伝心でした」(西村)。男たちは入間を飛び立った。

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江の島上空。NHKラジオを聴いていた松下が命じた。「よし、行こう」。遅れは出ていたが、最終の聖火ランナーが国立競技場に入場してからは正確に進行するはずと判断し、プログラムと赤坂見附までの距離約40キロ、5~6分の道のりを計算してゴーサインを出した。隊形を維持しながら開業直後の新横浜駅などの上空を北東に飛んだチームはどんぴしゃりのタイミングで赤坂見附に進入した。午後3時13分すぎや同16分ごろを示す記録も残っている。

定位置にくると、松下が指示を出した。「ブルー、スタートターン、ナウ」。一斉に機体を60度傾け、重力加速度2Gで右旋回を開始。続けて「スモーク、ナウ」。5色の煙を出した。煙の起点に突っ込むと煙を止め、一気に急上昇し背面になった。その時、5人の視界に、見たことのない、完ぺきな五輪マークが広がっていた。

「本当にうれしくて、酸素マスクの中で、できたー! って、大声で叫んでいました。都内の兄の家でテレビを見ていた母は、思わず道に飛び出して“あの赤い輪は息子なんです”って宣伝してたらしいです」(藤縄)、「国立競技場の中も顔の色に見えて、選手やお客さんも見上げてくれているなあと分かりました」(西村)。

メンバーは、松下の「ジョインナップ」の指示で編隊を組み直し、山手線沿いに都心を1周して入間に戻った。その日、東京はほとんど風もなく、世界を感嘆させ、称賛された五輪マークはしばらくの間、青空に浮かんでいたという。

後日談がある。開会式後、組織委員会から閉会式でもう1度やってほしいという依頼がきた。「松下さんが即答でお断りしました。またできる保証はどこにもない。次に失敗したら、成功したことまで台無しになるからね」(西村)。チームはその後も五輪マークを描いたことはなかった。

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藤縄は今、あの日新橋から入間基地に向かった車中のことを、こう回想する。「みんな、だんだん話をやめて静かになっていったんです。今日失敗しないように、どうすればいいか考えていました。絶対成功させなきゃいけない気持ちだったと思います。そんなみんなの気持ちがかたまったからこそ、成功したんだと思います」。西村は「同じ教育を受け、同じ仕事をして、同じ部隊で生活した。チームワークがよかった」と話す。その仲間たちも、今年5月に松下も逝き、同期の2人だけになった。西村と藤縄は「今度の東京五輪はテレビで楽しみますよ」と元気に笑っている。

1964年東京五輪の開会式で、国立競技場の上空にブルーインパルスが描いた5つの輪(航空自衛隊提供)
1964年東京五輪の開会式で、国立競技場の上空にブルーインパルスが描いた5つの輪(航空自衛隊提供)

◆西村克重(にしむら・かつしげ)1936年(昭11)8月27日、滋賀・草津生まれ。3歳で中国・奉天に渡り、終戦後に帰国。高校卒業後、航空自衛隊の航空学生1期生に合格。「奉天で陸軍航空隊の複葉機などをみて、あこがれていた」。55年6月2日、藤縄さん、2番機の淡野さんと入隊。浜松基地の後は北海道・千歳基地でF-104戦闘機に乗り、71年に自衛隊を退職。日本航空に入社し、国際線機長として活躍。96年に定年退職。

◆藤縄忠(ふじなわ・ただし)1937年(昭12)3月25日、東京・日本橋生まれ。小学2年で栃木・足利に疎開。55年春、高校を卒業し、東京商船大を受けたが不合格。「合格していたら、船乗りに」。航空自衛隊の航空学生1期生の募集広告を兄が見つけて応募し合格。55年6月の入隊からずっと西村さんとともに同じ道を歩み、70年に自衛隊を退職。日本航空に入社し、国際線の機長として活躍。97年に定年退職した。

来年の関連行事でも、ブルーインパルスが何らかの形で登場するかもしれない。関係者は部隊の本拠、宮城・松島基地にギリシャから聖火が到着する20年3月20日の式典などで検討している。7月24日の開会式は午後8時開始のため、登場するとしても9月のラグビーW杯開幕戦のように日没前のような形かもしれない。現チームの福田哲雄隊長は「そのような機会をいただけるなら、大変光栄なこと」と話す。準備も進められている。航空自衛隊は90年代後半からカラースモークの使用を中止。染料が地上のものにつくなどが理由。しかし20年に向けてメーカーと新染料を開発。今夏には試験も行い、地上への影響などを確認した。

現チームには「復興五輪」への特別な思いもある。松島基地も大震災で冠水。地域とともに復興の道のりを歩いてきて聖火到着地に指名されたいきさつもある。福田隊長は「活気を取り戻した日本、東北を世界の方々に見ていただきたい。また、この成功が地域の活性化につながることを期待しています。歴史的大会になんらかの形でかかわることができるならば、メンバー一同全力で取り組んでいきたいと思います」と語っている。

64年当時にブルーインパルスが使っていたF-86F(航空自衛隊提供)
64年当時にブルーインパルスが使っていたF-86F(航空自衛隊提供)

◆ブルーインパルス

航空祭や国民的な行事などでアクロバット飛行(展示飛行)を披露する専門チーム。青と白に塗装された機体がトレードマーク。現在の正式名称は宮城・松島基地の第4航空団所属「第11飛行隊」。1960年3月4日、浜松基地(静岡)で初の展示飛行を成功させ、64年10月の東京五輪開会式のほか、70年3月の日本万国博覧会(大阪)の開会式でEXPO70マークを描いた。98年の冬季五輪(長野)開会式、02年のサッカーW杯開会式(埼玉)、今年9月のラグビーW杯開幕イベント(東京)などでも展示飛行を披露。使用機体はF-86F→T-2を経て、現在のT-4が3代目。