08年北京オリンピック(五輪)の野球日本代表で、文字通りの「影武者」として縦横無尽の働きをした猛者がいる。楽天の光山英和1軍バッテリー兼守備戦略コーチ(54)は当時、野球解説者ながらスタッフとして本戦まで同行。ベンチ入りのコーチ3人、トレーナーなども厳選される中で星野監督に認められ、打撃投手、ブルペン捕手など多岐にわたってチームを支えた。その一部始終から、東京五輪金メダルへのヒントを探る。

■恩人から直電「来いよ」「はい」誕生の瞬間

08年北京五輪野球日本代表に手伝いとして参加した光山英和氏は、日本代表のロゴの横でサムアップポーズをとる(本人提供)
08年北京五輪野球日本代表に手伝いとして参加した光山英和氏は、日本代表のロゴの横でサムアップポーズをとる(本人提供)

影武者が星野監督と2人きりになった。08年8月22日。北京五輪の準決勝、韓国戦で敗戦後の宿舎エレベーター。金メダルが消滅し落胆する指揮官に、自然と周囲も距離を取っていたのかも知れない。偶然乗り合わせた光山が言葉をかけた。「お疲れさまでした」。返事はない。翌日には3位決定戦を控えている。「まだ明日がありますよ。もう1つ勝てばいいんですから」。

再び返事はなかったが「はぁ…」とため息が漏れた。最上階に着き、ドアが開いた。無言のまま部屋へ。光山は察した。「あかん、これはまた負けてまう」。

      ◇     ◇

星野監督は光山にとって恩人だ。近鉄で野茂の相棒役などで活躍し、13年間プレー。97年、当時監督が指揮をとっていた中日に金銭トレードで移籍した。出場機会は少なかったが、99年5月に吉原との交換トレードで巨人へ移籍。「トレードの話は僕の耳にも入っていたけど、シーズン途中だし実現は難しそうだった。でも甲子園で試合の時に星野さんに呼ばれて『人生かけていってこい!』と背中を押された。巨人で出場機会も増えたので、感謝しかない」。その後ロッテ、横浜、韓国リーグを経験し03年に現役を退いた。

しばらくプロ野球界から離れた。04年からCS放送「GAORA」の解説者に就任。同時に飲食店を経営し、最大10店舗を構えた。「飯を食うために飲食店をやった。もう野球の話はないんかなと思ってた」。

人生が動いたのは本戦を翌年に控えた07年。監督に近い関係者から「プレ五輪に、手伝いですけど行きますか?」と話があった。「それ、行くわ。行かしてくれ」と即答した。しばらく日がたち、直電があった。「手伝え」とのひと言に「はい、分かりました。ありがとうございます」と再び即答。「恩返しがしたい」と肩を回し、現役時代のミットも引っ張りだして備えた。

同年8月。巨人坂本、オリックスT-岡田らファームの若手に、東洋大の大場、愛知工大の長谷部ら、有望大学生も配した日本代表で北京に乗り込んだ。光山は12球団から派遣された裏方とともに「野球解説者 光山英和」とスタッフ名簿の一番下に名を連ねた。ベンチ入りし、打撃投手、ブルペン捕手に「星野さん、山本浩二さん、田淵さんも年で打たれへんから」と時にはノッカーも務めた。チェコ、フランス、中国を破り優勝。「いろいろやってくれてありがとな」。恩人のひと言に全てが報われた。

五輪キップをかけた12月の台湾でのアジア地区最終予選でも、同様の役割を担った。「他の裏方さんと同じく日当はあったけど、その場にいられるだけでうれしかった」。

本戦のベンチ入りコーチが5人から3人に限られるのと同じく、裏方も日本野球機構(NPB)事務局員、スコアラーも担う技術スタッフ、トレーナーなど数人に絞られる。各球団から派遣されていた打撃投手も入ることができなくなる。「本戦になればベンチに入るスタッフの数も少なくなるのも知ってたけど『電話が来ないかな』とは思ってた」。願いは通じた。

星野監督からの電話だ。「来いよ」「はい、ありがとうございます」。影武者が生まれた瞬間だった。

■1人何役も 秘密ルートでブルペン入り

明るい表情で選手に声を掛ける星野仙一監督(2008年8月11日撮影)
明るい表情で選手に声を掛ける星野仙一監督(2008年8月11日撮影)

大阪の自宅に光山の宝物がある。北京五輪野球日本代表のユニホーム。背番号は現役時代に約10年背負った「44」だ。

「公式ウエアもユニホームも、もらえる立場じゃなかった。星野さんが用意してくれた。『背番号は何番がほしいんだ』と聞かれたので『44番がほしいです』とお願いしたな」

関係者が身につける顔写真付きのIDパスも発行されていない。北京へ手伝いに行くことを周囲へ口にできなかった。「参加したスタッフたちと、自分らの仲間の何人かしか知らんかった」。影に徹した。

チーム宿舎から球場へ向かうバスの車内。前方の首脳陣、後方の選手たちの間、スタッフが陣取るエリアの通路側の席に座り、存在感を消した。警備員は外からのぞくだけだった。車内へ入られたら確認をとられていたかもしれない。降車時は下を向きながら球場入りした。「グラウンドのど真ん中で打撃投手やったからね。顔出して堂々と」。

他国からの指摘は一切なかった。「よく考えたら分かった。他も同じようなことやってたのかもしれんなと」。日本ベンチの影武者を指摘することで自国も詮索される可能性がある、と考えた国も少なくなかったかもしれない。

万が一、があってはいけない。気は緩めなかった。細部まで任務遂行に徹した。ベンチから、外野ファウルゾーンに位置するブルペンへ移動する経路にも、こだわった。初戦前日の練習日。グラウンドの中を通っていくのが通常ルートだが、多くの人目にさらされてしまう。ばれない道を探した。「結局1つしかなかった。スタンド下の通路を通っていくパターンだけ。ここなら誰もおらん。これでいかなあかんなと」。

プレ五輪、アジア地区最終予選と同じく、1人で何役も担った。「打撃投手は俺1人。持ち時間40分くらいを1人で投げた。時間が短くて全員が外では打てないから、室内に行って投げた。すごい球数になったんちゃうかな」。試合前に例の秘密ルートからブルペン入り。先発投手の球を受けた。試合中は、ベンチ内の投手コーチが鳴らす継投の電話をとった。試合後は用具の片付けを手伝った。

ただ、コーチでもスコアラーでもない。選手への指導はしなかった。「金メダルをとって監督に喜んでほしかった。『光山を入れて良かった』と思ってほしかった。できることは何かといえば、バッティングピッチャーでストライクを投げて、気持ちよく打たせて、ブルペンでしっかり捕って、気持ちよくマウンドに送る。実際それしかできない。アドバイスする気はさらさらなかった」。立場をわきまえていた。

■「ワッハッハ」勝負師アニマル浜口氏のゲキ

北京五輪野球1次リーグ日本対台湾 5回表1死、阿部慎之助が同点本塁打を放ち、雄たけびで迎える星野仙一監督(2008年8月14日撮影)
北京五輪野球1次リーグ日本対台湾 5回表1死、阿部慎之助が同点本塁打を放ち、雄たけびで迎える星野仙一監督(2008年8月14日撮影)

球場を離れても、北京での本戦中は重い空気が充満していた。

88年ロサンゼルス五輪以来、2度目の金メダルへ。「史上最強の24人」をもってしても、日本国民の期待はプレッシャーにしか変わらなかった。「俺だけが俯瞰(ふかん)して物を見られた。これまでの大会とは別物。『あれ、この雰囲気まずいな』『これで勝てるのかな』とずっと思ってた」。

あの星野監督が優しかった。「自分が中日におった時の監督とは、全く違う感じ。いつもの星野さんじゃないように見えた。選手とのやりとりを見ていても、ちょっと気を使いすぎてるなと。優しい言葉しかかけてない。怒ったことは1度もない。選手も“入って”いけてなかった。ちょっと距離がある中で進んでいった感じがしたね」。

何とかしたかった。でもしなかった。いや、できなかった。「勝たんと星野さんが寂しい思いをすると、目に見えていた。でも『この雰囲気、あかんやろ』と思っても自分は何もできない。感じながらも『何もしたらあかん』と」。1度も食事会場には行かなかった。当地にいる友人と外出し、行動をともにした。

立場を理解し、考え抜いた末、あえてチームと距離を置いた。「俺なりにプレッシャーもあったけど、見せないようにしようと。選手の気持ちでいうと、裏方さんが変にハッスルすると気持ち悪いものやねん。どんな時でも冷静で、普通でいてくれた方が、ありがたかったりする」。現役時代の経験を元に言動に注意を払った。選手やスタッフと記念撮影は1度もしなかった。

隠密だったから、かもしれない。「宿舎で何したか、あんまり記憶がないなぁ」。数秒おいて「あ、でも1つだけあるな」。準決勝前日の8月21日。天気は雨。宿舎近くの室内練習場で、選手がストレッチをしていた。すると突然、元プロレスラーのアニマル浜口氏が訪れた。例のごとく「みんなで笑おう! ワッハッハ!」とチームを巻き込んだ。

光山は「さすがやな」と思った。「勝負師だから分かってるんやなと。この重たい空気を変えようと、やってくれてるんやなと思ったね」。予選リーグはキューバ、韓国、米国に敗れ4勝3敗。圏内ぎりぎりの4位で準決勝進出。相手は宿敵、韓国。悪い予感はここまで来てもぬぐえていなかった。

■人選「その時の調子より勝負強さや根性」

08年8月、北京五輪3位決定戦で米国に敗れメダルを逃し、応援団に深々と頭を下げる星野監督(右)ら日本チーム
08年8月、北京五輪3位決定戦で米国に敗れメダルを逃し、応援団に深々と頭を下げる星野監督(右)ら日本チーム

準決勝の韓国戦、同点の8回1死一塁。光山は右翼スタンドに近い一塁側ブルペンのフェンス上から目だけを出して、グラウンドをのぞいていた。

打者は李承■。カウント1-2。捕手矢野が内角に構えた。「あかん、打たれる」。白昼に乾いた音が響いた。投手の岩瀬が振り返る。右翼手稲葉がフェンスへ張り付く。「あー、終わった」。ブルペンから放物線を見送った。2-6で敗戦。金メダルの可能性が消えた。

翌日の3位決定戦。グラウンドに立つ指揮官は「まだあるんだぞ。これに勝ったらメダルだ」と選手を鼓舞した。ただ、前日の沈黙が光山の脳裏を離れなかった。「星野さんとしては、ほんまに金しか考えてなかったと思う。金メダルに人生をかけてた。だから、もう夢破れてたのかなと、俺は思った」。米国に4-8で敗戦、4位。失意に暮れた。

打ち上げはなかった。帰国当日。空港へ出発前の宿舎食事会場にスーツ姿で一堂に会した。「みんなありがとう。よく頑張ってくれた。胸を張って帰ろうや」。言葉を絞り出しているように見えた。

8月24日の成田空港。「あいさつせなあかん」と星野監督へ寄った。「ありがとうございました」。返事はあったが、細い声に内容は覚えていない。会見へ向かう背中に決意した。帰宅後、手帳に記した。「何年後か分からないけど次のオリンピックに出たい。この借りを返す」。

      ◇     ◇ 

あれから12年。「次のオリンピック」がやってくる。究極の場を経験したからこそ言えることがある。「ムードメーカーは大事。空元気でもいい。かしこまったらあかん。戦う集団にならないと」。人選から戦いは始まっている。「今の実績だけで判断しない方がええかもな。その時点の調子というよりかは、勝負強さとか根性があるやつ。その時3割5分打ってるやつよりも、2割8分で勝負強いやつの方がええと思う」。事前準備の大切さは身をもって知った。「選手が24人、コーチも3人。ベンチ入りのスタッフも減るから、ちゃんと役割分担せなあかんな。誰がブルペンの電話をとるのか。控え捕手がいない時は、誰がブルペンで捕るのか。試合が始まったら絶対にバタバタする」。

稲葉監督とは北京の現場をともにした。「俺が30球投げた25球くらい、ようホームラン打たれたわ。『気持ちよく打たせてもらいました』って。その時はうれしかったな」と思い出を挟みつつ「選手として俺と同じように感じていたら、ワイワイやると思う。(北京五輪の)あの雰囲気で結果が出なかった。自分流、プラス何か、やってくれるはず」と期待を込める。

8月8日の決勝戦は、チケットの抽選に当選した友人とともに観戦予定だ。「練習がなかったら見に行く。北京の時よりもプレッシャーはほんまにすごいと思う。潜入? 今やって見つかったら迷惑しかないやん(笑い)」。影武者、いや光山は、一野球人として金メダルへの思いを託した。【桑原幹久】

※■は火ヘンに華

91年8月、日本ハム戦で近鉄野茂(左)と談笑する光山
91年8月、日本ハム戦で近鉄野茂(左)と談笑する光山

◆光山英和(みつやま・ひでかず)1965年(昭40)11月20日、大阪府生まれ。上宮から83年ドラフト4位で近鉄入団。中日、巨人、ロッテ、横浜、韓国・ロッテと渡り歩き、03年現役引退。NPB通算726試合、332安打、42本塁打、136打点、打率2割3分8厘。引退後は11年に西武にコーチで復帰。DeNAを経て、現在は楽天の1軍バッテリー兼守備戦略コーチ。186センチ、100キロ。右投げ右打ち。