東京オリンピック(五輪)へ向けて集中力を高めているのは選手だけではない。裏方として臨む人たちも本番を前に、着々と準備を進めている。外資PR会社コンサルタントなどの立場で東京五輪に“出場”する元バドミントン日本代表の池田信太郎さん(40)をはじめ、花火師で柔道の国内外大会で審判として活躍する天野安喜子さん(50)、経験豊富なビーチバレーボール国際審判員の里見真理子さん(54)の近況をリポートする。

元バドミントン日本代表 PRコンサルタント池田信太郎さん

■東京の魅力 世界へ発信

4月22日早朝、営業開始時刻から約2時間前の東京スカイツリー展望台フロアには、華やかさと熱気が漂っていた。

高さ634メートルを誇る東京のシンボルの魅力を世界に発信すべく、日本時間午前8時すぎ、海外メディア向け発表会がスタート。世界的な写真家のレスリー・キーさんをはじめ、国内外の著名人が登壇したグローバルキャンペーンに深く関わるのが、元バドミントン日本代表の池田信太郎さんだ。約1時間のプロモーションを成功に導き、「ホッとしています」。試合後のコートで見せたような、笑顔が広がった。

東京スカイツリーのプロモーションイベントが無事に終わり、笑顔を見せる池田信太郎さん(撮影・奥岡幹浩)
東京スカイツリーのプロモーションイベントが無事に終わり、笑顔を見せる池田信太郎さん(撮影・奥岡幹浩)

五輪2大会連続出場の池田さんは、2018年から世界屈指の外資系PR会社のシニアコンサルタントとして活躍している。担当クライアントの1つが東京スカイツリーを運営する東武タワースカイツリー社で、延期決定後初の東京五輪スポンサーにもなった同社を、かねてサポートしてきた。

選手として臨んだ2度の大会は支えられる側にいたと振り返る池田さんは、「今の自分は、東京五輪のパートナー企業を支える側」。自らの立場をそう認識したうえで、裏方として臨む大会を前に、「サポートしてくれる企業に対し、スポーツはどう対価を返すことができるか。フェアな視線で物事を捉えるように心掛けています」。

日本バドミントン界初のプロ選手としても知られる。スポンサーを獲得するにはどうすれば良いのか、現役時代からビジネスへの関心は高かった。引退後にマーケティングの勉強を本格的に始め、ビジネスの現場で経験を積み、センスを磨いてきた。PRコンサルタントとして、大事にしているのは戦略の構築とストーリー。「いくら素晴らしいものをつくっても、伝えなければ、ないのと同じ。これはスティーブ・ジョブズの名言です。人に価値を伝える手段として何をすればよいか、徹底的にチームで考える毎日です」。

東京スカイツリーのプロモーションイベント後、笑顔を見せる池田信太郎さん(本人提供)
東京スカイツリーのプロモーションイベント後、笑顔を見せる池田信太郎さん(本人提供)

冒頭で触れたキャンペーンでは、カラフルなリボンを象徴的に活用して、東京スカイツリーが世界中の希望をつなぐ場所になれることを表現した。運営会社営業本部の小杉真名美課長は池田さんについて、「ものすごい熱量で、細部までこだわってメッセージ性を出していただきました」。ビジネスパートナーとして信頼感を口にする。

他にも業務は多岐にわたる。米国五輪パラリンピック委員会のマーケティング戦略担当者として、米国代表チームとホストタウンの世田谷区との文化交流などを促進する「Thank you,Japan(センキュー・ジャパン)プロジェクト」を遂行。さらに元オリンピアンとしては、大会組織委アスリート委員会のワーキンググループリーダーや、飲食戦略検討委員の一員として運営に携わってきた。

コロナ禍での五輪開催について、反発の大きさは感じている。そのうえで池田さんは、「何とか乗り越えようとする機運を高めることも重要。誰が金メダルを取るかといったトピックだけでなく、コロナ禍で大会を行う価値など、真剣に考えるべきことは多いはず。今は東京スカイツリーと一緒にこの先の未来を見ていくことが、貴重な経験になっています」。その考察は深く、思いは熱い。【奥岡幹浩】

◆池田信太郎(いけだ・しんたろう)1980年(昭55)12月27日、福岡県生まれ。九州国際大付高-筑波大。坂本修一とのペアで07年世界選手権で日本男子初の銅メダルを獲得し、08年北京五輪に出場。09年からは潮田玲子と混合ダブルスを組み、12年ロンドン五輪にも出場した。15年9月に引退。現在はフライシュマン・ヒラード・ジャパンのシニアコンサルタント兼クリエイティブディレクターを務めるなど、多方面で活動。

◆池田氏の五輪2大会 実業団の日本ユニシスに所属し、坂本修一とのペアで08年北京五輪に出場するも初戦で敗退。09年に日本初のプロバドミントン選手となり、12年ロンドン五輪には潮田玲子との「イケシオ」ペアで、混合ダブルスに出場した。日本勢として同種目で、五輪初勝利を挙げるなど奮闘したが、1次リーグ通算1勝2敗で、各組2位までの8強進出はならなかった。

宗家花火「鍵屋」15代当主 柔道国際審判員天野安喜子さん

■夢の武道館 大輪咲かす

小さな仕事人が、集大成となる2度目の五輪に臨む。花火師としても活躍する天野さんは、08年北京五輪に続いて柔道の審判日本代表として日本武道館の畳に立つ。

東京五輪への思いを語る天野安喜子さん(撮影・峯岸佑樹)
東京五輪への思いを語る天野安喜子さん(撮影・峯岸佑樹)

朗報は、今年2月上旬だった。国際柔道連盟(IJF)から1通のメールが直接届いた。東京五輪の審判員任命の内容を見た天野さんは「いい意味で緊張感を持った。今回は女性枠でなく世界から選ばれた1人。日本人審判として選手の良いところを引き出したい」と、13年ぶりの大舞台に強い覚悟を示した。

国際審判員になって20年目。当時、女性審判はごく少数だったが「白黒つけたい性格」が合い、選手時代とは違うやりがいを感じて審判の魅力に引き込まれた。審判も世界ランキング制で、多くの国際大会を裁いて実績を積み上げてきた。国内を含めると推定1万試合で、コロナ禍前は年の半分は海外を飛び回っていた。日本女性初となった北京五輪では、153センチながら凜(りん)とした姿で男子100キロ級決勝の主審を務め、東京五輪では審判員16人のうち日本から唯一選ばれた。「現役時代に届かなかった夢が2度もかなうなんて感無量の一言。五輪特有の選手の気迫や空気感を受け止めて自信を持って裁きたい」。

宗家花火鍵屋の15代目当主としても活躍する天野安喜子さん(撮影・峯岸佑樹)
宗家花火鍵屋の15代目当主としても活躍する天野安喜子さん(撮影・峯岸佑樹)

1659年(万治2)創業の宗家花火「鍵屋」(東京・江戸川区)の15代目当主の顔も持つ。国内最大級の江戸川区花火大会では、100人以上の職人を束ねる総監督だ。点火指示や装置点検など、緊張が強いられる仕事で、トラブル発生時には即座に的確な指示が求められる。花火師と審判の共通点として、「一瞬の判断とリズム」を大事にする。花火は打ち上げる際の微妙なタイミング、柔道は試合を止める時の「待て」だ。

2度目の夢舞台では、競技発祥国の重圧も背負う。天野さんは言う。「審判の質で、競技の質や流れが変わる。プレッシャーがかかる時こそ地に足をつけることが重要。主役である選手たちが完全燃焼できる舞台を作り上げること。それが私の役目であり、仕事」。2カ月後-。日本の伝統を守る江戸っ子は、武道の聖地で大輪の花を咲かせる。【峯岸佑樹】

◆天野安喜子(あまの・あきこ)1970年(昭45)10月31日、東京都生まれ。小2から柔道を始める。共立女子高1年時、52キロ級元世界女王の山口香に一本勝ち。86年福岡国際女子選手権48キロ級で銅メダル。日大卒業と同時に現役引退。00年に鍵屋の15代目を襲名。昨年12月の東京五輪男子66キロ級代表決定戦では主審を務めた。段位は7段。趣味はヨガ。好きなテレビ番組は鬼平犯科帳。愛称はあっこちゃん。153センチ。

五輪2大会“出場” ビーチバレー国際審判員里見真理子さん

■冷静に裁く 砂上の熱戦

ビーチバレーで2大会連続の五輪審判に選出された里見さんには「究極の願い」がある。3カ月を切った東京五輪を思い浮かべ、こう口にした。

「やっぱり選手が主役。日本の選手が決勝まで残って、ビーチバレーが盛り上がる。私は近くで応援する。それが一番の理想です」

日本唯一の国際審判員は、日本勢の試合を担当できない。その立場を理解した上で「『本当は決勝を吹かせたかった』と言われるぐらい、自分のレベルを上げたいです」とほほえんだ。

昨年3月、心の揺れを抑えつけた。新型コロナウイルス感染拡大で、東京五輪中止や延期が検討された時期だった。国際審判員の定年は55歳。例外となる可能性こそあったが、うわさされた2年延期や中止となれば、舞台に立てない結末も考えられた。実際にインドアの外国人審判は、1年延期の影響を受けて、五輪切符を後進に譲ったという。

「チャンスがなくなれば、別の日本人をサポートする。『信じて準備するしかない』と割り切りました」

19年7月、ワールドツアー東京大会で記念写真に納まる里見真理子さん(右から5人目)(本人提供)
19年7月、ワールドツアー東京大会で記念写真に納まる里見真理子さん(右から5人目)(本人提供)

道しるべは現地観戦した00年シドニー五輪にあった。2年後の高知国体へ、審判の道を進んでいた。大先輩である今野正明さんの堂々としたジャッジを目に焼き付け、男女決勝の主審を務めたオーストリア人女性の姿には勇気がわき出てきた。

「『女性でも五輪決勝で吹けるんだ』と衝撃を受けました。漠然と『あそこに立ちたい』と思いました」

自称「中学生レベル」だった英語は英会話教室と国際大会の現場で磨いた。04年に日本人女性で初めて国際審判員試験合格。初五輪は16年リオデジャネイロ大会だった。審判台に立てば集中し、暑さも、寒さも忘れる。特別感は競技終了後に観光で「キリスト像」を訪れ、ようやく芽生えた。

22、23日には東京五輪代表決定戦が行われる。男子はJR大阪駅、女子は多摩モノレール立飛駅(東京・立川市)すぐの特設会場が舞台だ。審判の立場でも魅力発信の大切さを胸に刻む。

19年9月、中国で行われた東京五輪予選で笑顔を見せる里見真理子さん(本人提供)
19年9月、中国で行われた東京五輪予選で笑顔を見せる里見真理子さん(本人提供)

「砂の上で、風を感じてプレーをするのを、生で見ていただきたい。審判としては『(両チーム)4人が全部出し切った』と思ってもらいたい。選手と一緒に、お客さんに喜んでもらえるゲームを作りたいです」

冷静なジャッジで、その一翼を担う。【松本航】

◆里見真理子(さとみ・まりこ)1967年(昭42)2月15日、岡山市生まれ。親の転勤の影響で関西や高知で生活し、兵庫・西宮東高卒業。インドアのバレーボールに打ち込む。結婚を機に高知へ移り、92年からビーチバレーに転向。97年の大阪国体で現役引退。04年に国際審判員試験合格。16年リオ五輪で女子準々決勝の副審、19年世界選手権女子決勝の副審などを務める。コロナ禍も週5日のトレーニングなどを継続。