“歩くスーパー店員”が、金メダルへの道を突き進む。

陸上男子競歩の濱西諒(24)には、2つの顔がある。1つはパリオリンピック(五輪)20キロ競歩代表。もう1つはスーパーの店員だ。明治大卒業後の23年4月に首都圏でスーパーマーケット48店舗を展開するサンベルクスに就職。埼玉・草加市内の店舗で週4日勤務しながら競技との両立を図り、パリ切符をつかんだ。

かつて白球を追った野球少年は大阪・履正社高で競歩を始め、諦めずに努力を重ねてきた。異色のウォーカーが、五輪同競技日本勢初の頂点へ挑む。

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今日も買い物かごを手にしたお客さんから声をかけられる。「どの野菜が新鮮ですか?」。濱西が働くのは、野菜や果物の品出しや加工を担う青果部。配属当初は上司へよく助けを求めていたが、2年目となった今は1人で対応できることも増えた。

「まだ全然ですが、少しずつ目利きもついてきたと思いたいです」

週4日の勤務日は、午前5時半から朝練習を始め、同8時に出勤。うち2日は午後5時まで、残る2日は午後1時まで働き、練習に向かう。会社の理解のおかげで仕事と競技を両立でき、社会人1年目で五輪切符を獲得。高校1年で競歩と出合った時には、今の姿を想像できなかった。

「まさかこうなるとは…。五輪が夢だなんて言えなかったんです」

もともとは野球少年。大阪で生まれ育ち、小学校では地元の野球チームで外野手だった。夢は甲子園出場。「当時の甲子園球場は外野席も無料だったので、よく友達と見に行きました」。ただ、その夢は薄れていく。小学6年の12年。地元の大阪桐蔭が、エース藤浪晋太郎(現メッツ)と森友哉(現オリックス)の強力バッテリーを擁し、春夏連覇を達成した。憧れを抱いたが、同時にこうも思った。

「俺、こんな次元にはいかないだろうな」

数年後に聖地で躍動する姿は、想像できなかった。

中学では、学外のチームで野球を続けながら陸上部に入部。「タイムが縮まっていくのがうれしくて」。2年から陸上に専念すると、駅伝での走りが目に留まり、履正社高への推薦入学が決まった。

ただ、入学直後に壁にぶち当たる。3000メートルのタイムは同学年10人中8番目。なかなか大会に出ることができなかった。見かねた浜崎弘監督から「やってみるか?」と誘われたのが、ルールすら知らない競歩だった。

「競歩か…」。当初は長距離走への憧れもあり、気乗りしなかったが、いざやってみるとのめり込んだ。練習を重ねる中で「地道なことを続けるのは向いている」と確信。始めて1年足らずで出場した17年日本選手権ジュニア男子10キロで同世代トップの10位となり、同年のアジアユース選手権1万メートルでは4位。適性が開花した。

しかし、明大進学後は体調不良や故障に泣いた。2学年上の池田向希らが国際舞台で活躍する中、日本代表からも遠ざかった。一時は引退も頭をかすめたが「高2のアジアユースの4位はずっと悔しかった。もう1度、日の丸を背負いたい」という思いが胸に残った。小6の時は甲子園の夢を簡単に諦めた。でも競歩は、諦められなかった。

大学卒業時、強豪実業団から声はかからなかったが、働きながら競技を続けると決めた。勤務時間の分だけ、競技に打ち込む時間は減ってしまうことになるが、どんな環境でも強くなれると証明したかった。

「競技だけをしているとたくさん時間ができてしまうけれど、限られた時間であれば、出来ることをやろうという発想になる」

朝5時半から朝練習に励み、勤務後に20キロを歩く日もあった。その努力が実り、今年2月の日本選手権で2位に入ると、5月には5000メートルで18分16秒97の日本新記録を樹立。今は「金メダルを目標に頑張りたい」と言えるようになった。

働きながら、地道につかんだ五輪切符。お客さんからは品物の鮮度だけでなく、「テレビ見たよ」「頑張ってね」と声をかけられるようになった。それが何よりの活力になる。

「応援や期待の声は、プレッシャーではなく自分の力に変えられるほうだと思います。うれしく受け取っています」

パリの舞台でも、濱西だからこその輝きを放つ。【藤塚大輔】

 

◆濱西諒(はまにし・りょう) 2000年4月24日、大阪・豊中市出身。豊中市立第四中で陸上競技を始め、履正社高で競歩と出合った。高2時の17年アジアユース選手権1万メートル競歩代表。高3時の18年福井国体では少年男子共通5000メートル競歩で優勝。明治大を経て、23年からサンベルクス所属。幼少期から阪神を応援しており、初めて買った選手のユニホームは新井貴浩(現広島監督)。高校時代は1学年上に安田尚憲(ロッテ)、1学年下に井上広大(阪神)がいた。アイドルグループ「櫻坂46」のファン。身長173センチ。