原大智(20=日大)が初出場で、銅メダルを獲得した。決勝2回目でトップのポイントを出し、決勝3回目に最終6人目で登場し82・19点を記録した。今大会の日本勢初メダルとなった。

 原が中学時代に下宿して通い、現在も練習拠点のひとつとしているナスパスキーガーデン(新潟県南魚沼郡)も、メダル獲得の喜びで沸いていた。ゲレンデ管理を行い、原の練習をいつも見守っていたという同ガーデンパトロール隊長の南雲康夫さんが取材に応じた。

 初めて原に出会った時から、すでにその才能を感じていたと明かし「彼はコブのターン技術が高く、中学1年でここに来た時から、将来活躍すると感じていた。信じていた通り、今回の五輪で結果を出してもらった」と喜んだ。

 原は東京都出身だが、中学1年から中学卒業まで新潟で下宿。同ガーデンで毎日練習した。ゲレンデのモーグルコースは全日本レベルの選手が滑るSAJ(全日本スキー連盟)公認のA級コースよりも難度の低いB級コースだった。しかし、原が中学2年の頃に、コーチがさらに上級コースで練習することを希望。そこで、一般客も滑るゲレンデの上級コースの隅に、モーグル練習用の特別コースを作った。南雲さんは「エアを行うキッカーだけは彼だけしか跳べないようにしました。彼はとにかく明るくて優しく、ハートが強い。加えて我慢強い部分もあり、自分の気持ちのいらいらを出さないタイプだった」と話す。

 原は中学卒業後、カナダの高校へスキー留学した。帰国後は別の練習拠点を使用する道もあったが「いつも頼りにしています」という本人の申し出もあり、再び同ガーデンでも練習を行っていた。現在は月に1~2回ほど訪れているといい、南雲さんは「帰国後はここを使わなくてもよかったのに、たくさんの後輩を連れて帰ってきてくれた。彼は優しい子。本当にありがたいです」と声を弾ませた。原は平昌出発前の北海道合宿に入るまで、同ガーデンで練習を行っていた。

 原がW杯で結果が出ずに落ち込んでいる時は「心配するな。必ずいつか結果出るから」と励ましていたという。そんな南雲さんは、五輪の舞台での原の様子を見て、勝利を確信していた。「スタート台での表情を見て、勝てるなと思った。いつも通り落ち着いてるなと。W杯で勝てなかった時の焦っていた表情と違った。素晴らしい滑りでした」と明るい声で喜びを語った。

 銅メダル獲得後、またすぐにメールを送った。「おめでとう。まずはゆっくり休んで」。多くの人に支えられ、原は立派な恩返しを果たした。【松尾幸之介】