鈴木沙織(28=城北信用金庫)は71・80点の14位で、上位12人による決勝進出ラインに1点及ばなかった。元美容師の経歴を持つ鈴木は「自分の滑りが出しきれなかったのですごく悔いが残る。みんなに応援してもらって素晴らしい舞台だった」と語った。

 1度はスキーをあきらめた中で、つかみ取った五輪切符だった。小学5年からアルペン競技を本格的に始め、山形中央高2年の時には全国高校総体にも出場。卒業後は幼い頃からの夢だった美容師になるべく東京の美容専門学校に進学し、競技者としてのスキーからは離れた。専門学校を卒業してからの半年間は、東京・自由が丘の美容室で美容師として働いた。まだお客さんの髪をカットすることはできず、カラーなどの施術をする毎日だった。

 休みの日は当時住んでいた近所の室内スキー場に通い詰めた。競技から離れたものの、スキーに対する熱意は冷めなかった。「やっぱりスキーをやりたい。年齢のこともあるしスポーツは今しかできない。やるしかない」。決意した鈴木は美容室を半年で辞め、滑りに憧れていたスロープスタイル選手の辻麻衣子さんのコーチ、白川大助氏の門をたたいた。「スキーをやりたいのでチームに入れてください」と懇願し、大好きなスキーをやる下地が整った。種目はコーチと相談し「どうせやるなら五輪に近い方を」と、アルペンではなくハーフパイプをゼロから始めることを選んだ。「初めてハーフパイプを滑った時には、飛ぶこともできなかった。でもめちゃめちゃ楽しかったんです。ハーフパイプで五輪に行くんだと決めて、やると覚悟を決めました」。

 鈴木をそこまで突き動かしたものは、高校時代に不完全燃焼でアルペン競技を終えた悔しさだった。高校3年の全国総体山形県予選。2年時に全国の舞台も経験し、全国優勝を狙っていた。1本目は1位。ところが2本目、得意なスラロームで転倒し、優勝の夢が途絶えた。全国大会への出場を逃し「やり切れなかったことで、何のためにスキーをやってきたんだろうという悔しさがずっと残っていた」。胸の奥で熾火(おきび)のように眠っていた思いに再び火が付いた。

 スキー選手として再出発した鈴木には試練も待っていた。12年12月には右膝前十字靱帯(じんたい)を断裂、手術を受けた。16年1月にも右足内側靱帯を損傷。平昌五輪の1年前、17年2月にも右膝半月板損傷、前十字靱帯再建手術を受けた。10月に様子を見ながら競技に復帰し、W杯を転戦。ようやくたどり着いた五輪だった。

 美容師には戻るつもりはないと言う。競技者として終えた後は、美容師の資格を生かして美容関係の仕事に就くことも視野に入れている。これまで平昌五輪に向けてスキーに全力でぶつかってきた。鈴木の好きな言葉は「なせば成る」。やればできるんだ-。「私の姿を見て、そういうふうに思ってもらえたらうれしいですね」。そう言って鈴木はほほ笑んだ。