観客席とグラウンドの仕切りは…棒を立て縄を張っただけ/黎明期の高校野球〈3〉

1915年(大4)8月18日、午前8時30分。大阪・豊中グラウンドに「プレーボール」の声が響きました。甲子園の第1歩を振り返ります。(2015年6月4日掲載。所属、年齢などは当時)

高校野球

★山田哲人の通学路

「高校野球メモリアルパーク」は1988年(昭63)、70回大会を記念して大阪・豊中市に造られた。

玉井町3丁目。ヤクルトの山田哲人二塁手(22)には懐かしい場所だ。「高校(履正社)3年間だけですけど、家から豊中駅まで行く途中にありました。これが豊中球場だったんだ、ぐらいしか覚えていないんですが」。今、市の親善大使として、存在をPRする立場にある。

この公園こそ、同所で第1回全国中等学校優勝野球大会(現全国高校野球選手権大会)が開催された証しだ。広さ114平方メートル。当時の豊中グラウンドを模した赤レンガ塀に、沿革が刻まれる。

「大正2年(1913)5月1日、綿畑などであった140M四方、面積19600平方Mの土地に、箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)によって建てられた。周囲は高さ1M余の赤レンガ塀で、木製の観覧席のほかに応援席もあり最高の施設だった。その後住宅地として分譲され、このメモリアルパークは当時のグラウンドの正面前である」

開場から2年後の1915年(大4)8月18日、午前8時30分に「プレーボール」の声が響いた。

〈広―鳥〉朝日新聞社・村山龍平社長が始球式を投じた後、鳥取中・鹿田投手が第1球を高めの直球でストライクを奪い、大会がスタート。いきなり失策絡みで2点を先制されたが、広島中・田部捕手の負傷交代もあり、すぐに逆転。鹿田は大会初の毎回奪三振をマークした。

開幕試合は広島中―鳥取中の対決だった。先攻の広島中が1回、いきなり2点を奪うと、その裏、鳥取中は3点を挙げた。

乱打戦。勝ち名乗りは鳥取中が受けた。14―7だった。安打は鳥取中8本、広島中5本。両軍合わせて19四死球、9失策。三振は22を数えた。

こんな話が残る。週刊朝日増刊号(59回大会=77年)で鳥取中の松木敬司一塁手(当時77)と中村延孝中堅手(同76)が当時を語っていた。

松木バットは5、6本持っていったが、ほとんどは折れたところを布テープを巻いてつくろったしろもの。満足なのは1本きり。

中村相手の広島中は各自が1、2本持っていた。新調したスパイクを履いていた。うらやましかった。

徳島・吉野川市出身。1974年入社。
プロ野球、アマチュア野球と幅広く取材を続けてきた。シーズンオフには、だじゃれを駆使しながら意外なデータやエピソードを紹介する連載「ヨネちゃんのおシャレ野球学」を執筆。
春夏甲子園ではコラム「ヨネタニーズ・ファイル」を担当した。