1大会83奪三振!板東英二のアンタッチャブル・レコード/黎明期の高校野球〈9〉

この先も絶対に抜けないであろう、とんでもない記録…敬意を表して「アンタッチャブル・レコード」と呼ばれています。甲子園では、1大会83奪三振が筆頭格。成し遂げたレジェンドが回顧します。(2015年6月9日掲載。所属、年齢などは当時。敬称略)

高校野球

第40回記念大会(1958年)の準々決勝、徳島商(徳島)―魚津(富山)は球史に残る名勝負といわれる。延長18回の末、0―0で引き分け。再試合となって、徳島商が3―1で勝利を挙げた。同大会から打ち切り規定が設けられ、初適用となった試合だった。時を経て18回は今、15回で打ち切りに。タイブレーク制の導入も検討される。当時の徳島商のエースで、野球解説者、タレントの板東英二(75)が57年前を、そしてタイブレークを語った。

◆板東英二(ばんどう・えいじ)1940年(昭15)4月5日、満州(現・中国東北地方)生まれ。徳島商から59年に中日入団。主に救援投手として活躍し、69年引退。通算435試合、77勝65敗、防御率2・89。球宴3度出場。引退後は野球評論家として活躍。球界の内幕を描いた著書「プロ野球 知らなきゃ損する」も話題に。芸能界にも進出し、89年には映画「あ・うん」で日刊スポーツ映画大賞助演男優賞を獲得するなど、多彩な活動を展開。

★1958年夏準々決勝 徳島商―魚津

板東は、57年前の相田球審の声をはっきり覚えている。延長18回裏2死。ここで25個目の三振を奪い、ベンチに戻ろうとしたときだった。「集合」の声が響いた。本塁前に整列すると同球審から「明日も頑張りましょう」と再び声がかかった。終了午後8時3分、試合時間3時間38分。板東は216球を投げた。

板東打ち切りになるなんて全然知りません。「集合」といわれ「なに言うとんや」と思いましたから。延長からナイターになって涼しかった。疲れは感じてなかったと思います。

開幕当日(8月8日)の朝日新聞が延長の規定変更を伝えた。「試合が延長に入った場合、勝敗が決まらなくても18回で打ち切り、また4時間を超えてなお勝敗が決まらないときは15回で打ち切る。翌日再試合を行う」。告知から8日後、初の適用試合となった。

きっかけも板東だった。同年4月26日から行われた春季四国地区大会。4県の優勝校が参加し、初戦で高知商とぶつかった。延長16回、2―1の辛勝。21三振を奪った。決勝は高松商が相手だった。延長25回、262球を投げ、26三振を奪いながら0―2で敗れた。5時間27分の激闘だった。

こんな話が残っている。徳島商ナインは決勝後、開催地の高知から徳島への帰りを急いだ。土讃線で阿波池田までは戻れたが、乗り継ぐ徳島行きの終列車は出たあと。ホームのベンチで仮眠し、始発で徳島へ。学校に着くと、いつも通り夜11時まで練習を行った。

徳島・吉野川市出身。1974年入社。
プロ野球、アマチュア野球と幅広く取材を続けてきた。シーズンオフには、だじゃれを駆使しながら意外なデータやエピソードを紹介する連載「ヨネちゃんのおシャレ野球学」を執筆。
春夏甲子園ではコラム「ヨネタニーズ・ファイル」を担当した。